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「不殺人殺(ふせつにんせつ)」思想の現代的展開

「世界市民」として生きる事の意味

[2026.7.1]



「非暴力・不服従」による独立運動を闘ったマハトマ・ガンジーが呼び掛けた「塩の行進」
PHOTO(C)WIKIPEDIA


「非暴力」の根底にある「調和」の原理



 6月19日、米国とイランが「14項目の合意文書」に署名し、60日間の停戦状態に入った。

 トランプが停戦合意を急いでいたのは、7月4日の建国250周年記念行事において「平和をもたらした英雄」として自己を演出したかった為である。

 従って、米国とイランとの戦闘が再開されるのは時間の問題である。

 中東においては、今後も戦火が絶える事は無いだろう。

 米国対イラン、さらにイスラエル対レバノン等々、現在進行中の戦争は、いずれも「一神教」同士の戦いである。

 一神教は多様性を否定し、他宗を排撃する不寛容さが本質である為、必ず争いの火種となる。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教は、いずれも砂漠のような過酷な自然環境の中で生まれた宗教である。

 そうした一神教の社会にとって、「自然」は人間にとっての「敵対者」であり、自然とはあくまで人間が支配し制圧すべき対象であった。

 そのため一神教の文明は、建物のみならず道路や橋や水道等に至るまで、全てのインフラは人工的に加工された石によって造られた。そこに「自然物」は一切存在しない。

 謂わば一神教の文明とは「石の文明」であり、石工の集団は「文明の創造者」として崇敬された。

 このような経緯から、一神教の社会には「調和」の思想が存在しない。

 そこにあるのは「支配」の思想のみである。

 一方、東洋においては、自然とは人に豊かな恵みをもたらす存在であり、自然は人々にとって崇拝の対象でもあった。

 そのため東洋では、建物や橋などのインフラの大半は自然物である木や土で造られるなど、文明は自然と調和しながら形成されてきた。

 このように東西文明の相違は、文化や生活様式にまで影響し、人々の思考様式まで規定している。

 一神教の社会が「力による支配」を目指すのに対し、東洋社会は「調和による安定」を理想とする。

「非暴力」や「不殺生戒」などの東洋的思想もまた、そうした「調和の原理」から派生したものと考えて良い。

 20世紀の前半、西洋的な「支配」の原理に基づく「暴力による政治」に対し、「非暴力による抵抗」を唱えて実践したのがインドのマハトマ・ガンジーであった。

 ガンジーの非暴力思想(アヒンサー)の根底には、インドの古代経典『バガヴァッド=ギーター』や『ウパニシャッド』の教えがある。

 彼はこれらの教典から「不殺生」や「無執着」、「他者への奉仕」の精神を汲み取り、現実の独立運動へ昇華させた。

『バガヴァッド・ギーター』における根本的な精神「アヒンサー(非暴力・不殺生)」は、古代インドの伝統的な教えであり、後にジャイナ教や仏教、ヒンドゥー教に継承された「あらゆる生命に対する不傷害」の思想である。

 ガンジーはこの古代の教えを単なる宗教的戒律に終わらせることなく、不当な支配に抵抗する為の「最強の武器」として現代に復活させた。

 ガンジーの「非暴力・不服従」の思想は、暴力や怒りではなく、愛と真理(サティヤ)をもって敵を説得し、魂に訴えかける「サティヤーグラハ(真理の把持)」という抵抗運動として展開された。

『バガヴァッド・ギーター』における「アヒンサー(非暴力・不殺生)」は、単なる肉体的な平和主義ではなく、「私利私欲や結果への執着を捨てて、自らに課せられた社会的義務(ダルマ)を果たすこと」と密接に結びついている。

 ガンジーは『バガヴァッド・ギーター』の教えを、武器を持って戦うことではなく、「自己の欲望や暴力性を克服し、愛と真理(サティヤーグラハ)をもって不義と闘う精神的アヒンサー」として読み替えた。

 そうしたガンジーにとって「非暴力」とは、たとえ闘争の最中であっても「相手を敵視する見方を克服しようとする行為」である。

 即ちガンジーの言う「非暴力抵抗」は、「反対者の中の最良のものを覚醒させる手段」であり、「人間を敵味方に分けるのではなく、たまたま敵対している人の中の道徳的要素に訴えかけていく」行為であった。

 またガンジーの思想に強い影響を受けた米国のキング牧師は、非暴力抵抗の「攻撃の目標はたまたま悪を行うようになった人間ではなく、悪をもたらす制度そのものである」として、人種隔離制度の廃止を求めて公民権運動を展開した。

 そしてこれが最も重要な事であるが、彼等にとって、非暴力は「手段」であると同時に「目的」でもあったのである。

 ガンジーの究極の目的は、「全ての事が非暴力的に解決される社会」を創ることであった。

「全ての事が非暴力的に解決される社会」を、非暴力の手段によって創っていくという点で、目的と手段は完全に一致していた。

 ガンジーは、自らの運動において非暴力の規律が破られた場合、断食をすることによって暴力の使用を戒め、不服従運動の一時中止を求めたほどである。

 こうした非暴力による運動が、「調和」の原理に基づくアジア地域から発生した事は必然であった。



仏教における「不殺人殺」とは



 今回は、仏教用語である「不殺人殺(ふせつにんせつ)」について考えてみよう。

「不殺人殺」は、同じく仏教における「不殺生戒」に相当する。

 またそれは、ガンジーの「非暴力」にも通じる思想である。

 かつて前漢時代に仏教が中国大陸に伝来した頃、仏教の説く「不殺生戒」は、当時の中国人にとっては画期的なものであった。

 当時中国において一般に普及していた儒教では、祖先に対して肉などを捧げて祀る事が通常であった事もあり、「不殺生戒」は中国人にとって異質なものであった。

 そのため中国においては、「仏教」イコール「不殺生の思想」として理解されていた。

 また仏教思想における「因果応報」の理法も、殺生を戒める為の方便と解釈され、あくまで根本思想は「不殺生」であるとされた。

 日本で最もポピュラーな経典は「法華経」や「般若心経」であるが、中国で最も広く知られている仏教経典は「梵網経」である。

「梵網経」は5世紀に中国で作られた物で、インド伝来の経典とは異なるが、大乗仏教の集大成とも言うべき戒律が纏められている。

「梵網経」では、大乗菩薩行の戒として「十重戒」と「四十八軽戒」が説かれている。

 それは従来の様々な経典に書かれた戒を纏め、現実に合わせて調整したもので、その後、日本を含む東アジア全体の仏教思想に影響を与えた大乗仏教の根本戒律である。

 その「梵網経」が最も重視する「十重戒」の中の「第一重戒」が「不殺生戒」である。

「梵網経」の説く「不殺生戒」では、自ら殺生しないだけでなく、人に殺させたり、殺す事を賞賛したり、殺す事を見て喜ぶ事も禁じている。

 従って仏教の一派である密教などに見られる「呪詛」や「調伏」のような事も、大乗仏教では一切認められないのである。

 また「梵網経」の「四十八軽戒」の中の「第十軽戒」では、「武器や殺生に使う道具を所持してはならない」と説かれている。

 さらに「第十一軽戒」は、国使となって諸国間を往来したり、軍使となって陣中に入る事をも禁じている。

 このように大乗菩薩行の行者は、如何なる戦争行為にも関わってはならないとされた。

 しかしながら古代や中世の仏教は、中国のみならず、韓半島や日本においても、王権の保護の下で存続し得た。

 そのため仏教は王権の要求に従い、戦勝の為の祈祷をはじめ様々な形での戦争協力をするようになり、「不殺生戒」は空文化してしまう結果になった。

 かくして「非暴力=不殺」の思想は、「梵網経」において最重要の「第一重戒」であったにも関わらず、やがてその規範は単なる「動物愛護」や「肉食禁止」の習慣へと矮小化されてしまった。

 因みに我が国で「動物愛護」や「肉食禁止」の政策が徹底されたのは、徳川五代将軍綱吉の「生類憐みの令」による治世であるが、それはすでに形骸化され変形させられた似非仏教思想の産物であった。

 そもそも「お犬様を傷つけたら死罪」といった法令など、本末転倒も甚だしい。

「梵網経」の「第一重戒」としての「不殺生戒」は、あくまで「人は人を殺してはならない」という事が原点であって、「不殺生」の対象を拡げ過ぎると、現実社会においては不調和や悲劇がもたらされるだけである。

 なお「不殺生」を説く宗教は、仏教の他にもジャイナ教やヒンドゥー教などがあるが、それらは動物はおろか「虫や微生物も殺してはならない」という厳しい戒律で、現実社会にはそぐわない内容である。

 このように、かつて「梵網経」に見られた「不殺生戒」の思想は、当時の権力達の都合によって矮小化させられてしまった。

 現代社会において「不殺生戒」を実現するとすれば、それは決して「動物愛護」や「菜食主義」の奨励などではない。

「不殺生戒」の思想が、歴史的に「動物愛護」や「菜食主義」へと変形させられてきたように、21世紀の「不殺生戒」の思想もまた、時代に合わせて変化・発展させる必要がある。

「不殺生戒」の実践において最も重要な事は 「殺生」につながる「因」を取り除く事である。

「不殺生戒」を現代的に置き換えるならば、「他者への思いやり」「環境への配慮」といった、精神や言動における「非暴力」を意味する。

「他人を尊重し、不要な怒りや争いを避ける」といった心得こそが、21世紀の時代における「不殺生戒」に他ならない。



現代における「不殺生戒」の在り方



 暴力に暴力を以て対抗すれば、暴力は限りなくエスカレートするだけである。

 従って、暴力に対抗するには、「非暴力」以外にはあり得ない。

 即ち、各人が心の中にある暴力性や怒りを手放し、言葉や態度で他者を傷つけない事もまた、現代における「不殺生戒」の重要な実践なのである。

 例えばSNSやネット上などにおいて、誹謗中傷や言葉による暴力・ハラスメントをしない事、さらに他者によるそうした行為に同調しない事も、現代的な「不殺生」である。

 近年では、SNSやネット上での誹謗中傷を苦にして自殺する人々が相次いでいる。

 これらもまた形を変えた「殺生」に他ならない。

 とりわけ昨年1月に発生した兵庫県の竹内元県議の自殺は社会問題になり、誹謗中傷を煽った立花孝志は名誉棄損で有罪判決を受けた。

 兵庫県の事件は、単なる名誉棄損というよりは、むしろ「殺人」に等しい行為であった。

 他にも、歪んだ勧善懲悪の意識や報復感情によって引き起こされる「冤罪」の捏造もまた「殺人」に相当する。

 1966年の「清水味噌会社一家殺害事件」(通称「袴田事件」)では、冤罪によって人間一人の人生が完全に破壊された。

 関係した静岡県警や検察官らの行為こそ、「殺人」以外の何物でもない。

 国家権力が死刑囚を殺害する「死刑」は国家による「殺人」であるが、「冤罪」もまた国家による「殺人」に他ならないのである。

 このような様々な形の「殺生」につながる「因」を取り除く事こそが、現代社会において求められる「不殺生戒」であり大乗菩薩行である。

 その為に必要なのは、多様性を認め、他者を尊重し、思いやる心である。

 これは、「虫や微生物も殺してはならない」といった大昔の戒律などよりも、遥かに重要な戒である。

 また現代社会においては、「環境破壊」もまた大規模な「殺生」に他ならない。

 環境破壊とは「生態系を脅かす行為」である。

 そうした中にあって、「生態系を脅かす行為に加担しない事」もまた生命尊重の一つの形であり、現代における「不殺生」に相当する。

 近年、先進諸国では「ミニマリズム(最小限主義)」がブームとなっている。

 ミニマリズムとは、断捨離などによって所有物を極限まで減らし、生活の無駄を無くしてゆくライフスタイルである。

 これは環境や生態系を大切にする生き方であり、広い意味ではミニマリズムも21世紀における「不殺生戒」の実践であると言えよう。

 このように、「不殺生戒」の思想は時代に応じて変化してゆくものである。

 また仏教でいう「不殺生」は、現代政治においては「非暴力」の概念に相当する。

 今や世界中に暴力が蔓延する時代になった。

 ウクライナ戦争やイラン戦争といった国家間同士の暴力から、身近なところでも無差別強盗殺人の連鎖など、暴力的犯罪が増加している。

 イスラエルによるガザ侵攻に伴うパレスチナ人の大虐殺などにおいては、幼い子供や病院内の患者までもが攻撃対象となり、民間人の殺戮が当たり前のようになってしまっている。

 国連は全く無力で、イスラエルが犯している国際人道法違反行為を止める事はおろか裁く事すら出来ない有り様である。

 そもそも国連常任理事国の中心である米中露の3大国が、いずれも国際法を蹂躙する「ならず者国家」となり果てているのである。

 すでに既成の国際秩序に対する信頼は崩れ去り、人類は「終わりの見えない暴力連鎖」の中に置かれている。

 最早この世界は、暴力行使への抑制が効かなくなったかのようである。

 では、世界における戦争や様々な暴力を無くしてゆくにはどうすれば良いのか。

 暴力に対して暴力を以て応じるならば、暴力の連鎖は止まらない。

 暴力の連鎖を止めるには、「非暴力」を以て対応する以外には無い事を知らねばならない。

 そして何よりも、「非暴力による闘いの方が、暴力手段による闘いよりも犠牲が少ない」という事実は重要である。

 暴力に対して「非暴力」を用いるべきなのは、それが宗教的・道徳的に優れているからというよりもむしろ、そうする事が最も合理的であり、且つ賢明な策であるからなのである。

 非暴力とは決して「何もしない」事ではない。

 暴力の連鎖を止める為に、今の自分に何が出来るのかを考え、実践しなければならない。

 そしてそれは、暴力の連鎖から自らを守る為でもある。



「非暴力防衛」は可能か



 20世紀以降、「非暴力」がしばしば世界の歴史を塗り替えてきた。

 1930年代にインドのガンジーが始めた「非暴力・不服従」の闘争戦略は、1950年代には米国のキング牧師に継承され、1964年の公民権法成立へと繋がった。

 さらに1986年のフィリピン革命は、民衆自身が立ち上がって軍部クーデターを未然に防ぎ、マルコス独裁政権を倒して民主化を成し遂げた「非暴力革命」であった。

 また1989年の東欧革命では、ソ連の衛星国であった東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、ブルガリア、ルーマニアにおいて、共産党政権が連続的に崩壊した。しかもルーマニア以外は全て「非暴カ」によって政権交代が惹き起こされた革命であった。

 さらにソ連邦崩壊をもたらした直接的要因は、1991年8月のソ連軍幹部によるクーデター未遂事件であった。この時は、モスクワ市民が非暴力でクーデターを阻止したのであった。

 従来の政治学では、「革命」とは民衆側の「暴力」の行使によって体制を転換する事とされてきたが、現代においてはむしろ「非暴力革命」が一般的であり、「革命」の概念が根本的に変わりつつある。

 以上に挙げてきた事例は、いずれも「国内的な闘争手段」としての非暴力であった。

 一方、「対外的な闘争手段(=戦争)」における「非暴力防衛」は、果たして可能なのだろうか。

 結論から言うならば、十分可能である。

 その最大の理由としては、「非暴力防衛」における死傷者の割合は、通常の戦争よりも遥かに低いのが通例であるからである。

「非暴力防衛」とは、たとえ軍事的侵略を受けても、国民が一貫して「非暴力」による抵抗運動を行い、侵略者の目的を遂げさせない事によって、侵略軍を敗北に追い込んでいくやり方である。

 一般に、「国防イコール軍事力」という固定観念が根強く存在する。

 そのため現在のところ、「非暴力防衛」を国防政策として正式に採用している国家は未だ存在しない。

 しかしながら、外国軍の侵略や占領に対して軍事力による戦争を行わず、非暴力で抵抗した歴史的事例は存在する。

 1940年から45年にかけて、ドイツ占領下のデンマーク、オランダ、ノルウェー等においては「非暴力抵抗運動」が行われた。

 また1968年には、「プラハの春」と呼ばれたチェコスロバキアの民主化の動きを封じる為に、ソ連軍を始めとするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに軍事侵攻したが、これに対してプラハ市民が団結して非暴力で抵抗した事件があった。

 いずれの場合も、侵略者である占領軍を撤退させることは出来なかったが、占領軍の支配の効率を妨げる事には成功した。

 このように、外国軍の侵略に対しても非暴力で抵抗する事は不可能ではない。

 確実に言える事は、非暴力による闘いの方が、暴力手段による闘いよりも犠牲が少ないという事実である。

「非暴力防衛」は、軍事的防衛よりも犠牲が少なく侵略者を撤退させ得るという意味において、戦略的有効性がある事は否定できない。

 そしてこの「非暴力防衛」の源流もまた、ガンジーの思想である。

 ガンジーの非暴力による闘争は、インド独立運動においてのみ適用されたのではない。

 彼はインド独立運動の闘いを経て、「非暴力闘争」を国防政策にも適用し得ると考えるようになった。

 事実、ガンジーは第二次大戦の際にはヒトラーに対してさえ非暴力で闘うことを唱えている。

 ガンジーは第二次大戦中、独立後のインドの国防政策として「非暴力防衛」を提唱した。

 ガンジーにとっては、「非暴力防衛」もまた独立運動と同じく、「非暴力・不服従」の一形態に他ならないのであった。

 国防政策にも独立闘争と同様に「非暴力」を適用する事が、ガンジー思想の必然的帰結であった。

 そのためガンジーは、インド独立後も「集団的紛争の解決に非暴力を貫く事こそ自由インドの国家的義務である」と主張し続けていた。

 だが、国民会議派議長で初代首相のネルーをはじめ独立インドの指導者達は、ガンジー流の非暴力思想を理解せず、独立後のインドは現実的な軍事政策へと舵を切る事になった。

 ロバート・J・バローズは、『非暴力防衛の戦略・ガンジー主義的アプローチ』において、「非暴力とは効果的かつ倫理的に政治的な力を行使していく方法である」として「原理的非暴力」論を展開している。

 つまり、個人の正当防衛権は否定しないが、「集団的闘争においては非暴力を徹底して追求すべきである」というのが「原理的非暴力」の立場である。

 そこで求められるのは、人類の「軍事的防衛からの脱却」であり、「戦争システムからの解放」である。

「非暴力防衛」は、原理的には「戦争の廃絶」をもたらす規範となる。

「軍事的防衛からの脱却」が必要であるのは、19世紀以来の国際法体系が、戦争を合法化・正当化している戦争システムであって、戦争においては罪の無い普通の人間同士が殺し合う事が当然とされるからである。

 どのような大義を持ち出しても、またたとえ自衛のためであっても、戦争において一般市民が犠牲になるという事実に変わりはない。

「非暴力防衛」は、こうした不条理な「戦争システム」から人類を解放する手段でもある。

 平時において許されない殺人が戦争において正当化されるのは、明らかに二重規範であり、このような矛盾を回避するには、戦争に代わる別のシステムが必要とされるのである。



「地球市民」として生きる事の意味



 戦争が長期化した結果もたらされるのは、市民の生活基盤や自然環境の破壊と人間精神の荒廃であり、何一つ良い事などあり得ない。

 そして「非暴力防衛」は、戦争システムから人類を解放する為の最も現実的な第一歩である。

 第二次世界大戦後、米国の公民権運動やフィリピン革命や東欧革命に見られるように、国内闘争では「非暴力」による闘いが勝利を収め得る事は証明された。

 しかしながら、国内闘争で有効な「非暴力」が、国防政策としては十分に信頼を得られていないのは、「国防イコール軍事力」という固定観念が根強いためである。

 今後の世界情勢を鑑みるならば、「非暴力」を国防政策に採用する事は非常に有意義である。

 ただしその場合、絶対に必要な事は、「軍人と民間人」あるいは「戦闘員と非戦闘員」とを明確に区別することである。

 武器を持って戦うのは、あくまで「軍人」「戦闘員」に限らなければならない。

 そして「民間人」「非戦闘員」は、絶対に武器を持たない事が必要である。

 ここで整理すると、外国からの侵略を受けて戦争状態になった場合には、軍人は従来どおり武器で侵略軍を撃退すべく戦う。

 その一方で民間人は、あくまで「非武装」で、侵略者に対しては「非暴力・不服従」の抵抗を貫き、占領地における侵略軍の支配を拒み続けることである。

 このように民間人の場合は、国内における非暴力抵抗運動によく似た闘争形態になる。

 やがて侵略軍は、占領地における支配が容易ではないと判断すれば撤退する以外になくなるであろう。

「非暴力防衛」においては、暴力を行使する軍事力としての国軍と、市民による「非暴力抵抗」とは、完全に分離されなければならない。

 そもそも19世紀までの近代国際法においては、軍人と民間人とは明確に区別されていた。

 しかしながら20世紀に入ってからは、第一次世界大戦を契機に「総力戦」という概念が生まれ、「民間人も戦うべし」という思想が定着した。

 因みにジュネーブ条約では、「正規軍」の場合、捕虜は人道的に扱うことが義務付けられており、捕虜の拷問や虐待や処刑は禁止されている。

 ただしゲリラやパルチザンのような「非正規軍」の場合は、ジュネーブ条約による保護が受けられない為、「捕虜」はスパイと同様に扱われ、拷問されたり処刑されても文句を言えないことになる。

 戦前の日本政府や軍部は、そうした国際法に無知であった為、大東亜戦争においては、「軍民協力」「軍民一体」なるスローガンを唱え、挙げ句の果てには、民間人も軍人と共に戦って自決せよ、といった非常識な命令まで出される始末であった。

 昭和20年4月から始まった沖縄戦においては、軍から民間人に自決用の手榴弾が支給された。

 その結果、手榴弾を所持していた民間人は、米軍からゲリラ戦闘員と見做されて全員が射殺された。

 その一方で、手榴弾を持っていなかった民間人は、米軍によって無事に保護されたという事実がある。

 非武装の民間人を殺害する行為は、戦時国際法違反であり「戦争犯罪」として罪に問われるからである。

 他にも、「軍民一体」の美名の下に、日本軍と一緒に行動させられた民間人達は、米軍の火炎放射器で丸焼きにされた。

 一般に、どんな軍人や兵士であっても、平時においては決して「殺人者」ではない。

 支那事変においてもベトナム戦争においてもイラク戦争においても、「ゲリラ狙撃兵から狙われている」と戦場でずっと恐怖し続けている兵士達は、ほんの些細なきっかけで市民を虐殺するようになる。

 侵略者達は、決して残虐な性格だから残虐行為をするのではない。彼等はみな、恐怖心のあまり残虐行為に走ってしまうだけなのである。

 従って、全市民が一貫して「非暴力」を続けた場合には、侵略者側も抵抗する民衆に対して残虐行為をする理由も必要も無くなる。

 そしてこれが最も重要な事であるが、「非暴力抵抗」は、他国の政府やNGO等からの援助を最も得やすい戦い方なのである。

 かりに、武力や暴力による抵抗や闘争を展開した場合には、利害が一致するか、同一のイデオロギーを共有する国家や諸団体からの支援しか受けられなくなる。

 真に国際世論を喚起し、「無条件に彼等を助けてやりたい」と、外国政府や諸機関を動かすような運動は、「非暴力」による抵抗運動以外にはあり得ないのである。

 従って「非暴力防衛」の場合には、国境を超えた国際的な諸力が戦争の「抑止力」になり得るのである。

 また非暴力手段の潜在能力は、地球的な規模での「情報化」の進歩とともに高まっていく。

 現実的に、自前の軍事力のみでは自国の防衛と独立を達成出来ない国は多い。

 そうした「自助・自立を望みながら、軍事力によってそれを実現出来ない国々」は、いずれも国防政策を「非暴力防衛」へと転換し得る可能性を有している。

 例えばヨーロッパの小国や東南アジア諸国などがそうである。ある意味では日本も該当するだろう。

 1980年代以降、オーストリア、スウェーデンなどでは、軍事的防衛を補完する為に「非軍事的防衛」が国防の一構成要素として採り入れられた。

「非軍事的防衛」の採用は、スウェーデンの場合、20年以上に及ぶ長年の調査と議論を経て決められた事であり、国防政策における「非暴力」の有効性が認められた結果である。

 注目すべき事柄としては、ソ連崩壊以前の1991年に独立を宣言したエストニア、ラトビア、リトアニアというバルト三国で「非暴力防衛」の政策が決議された事がある。

 これはソ連という超大国の軍事的脅威の下で、「自助・自立を望みながら、軍事力での対抗は不可能」という状況での現実的選択でもあった。

 そして実際にバルト三国の独立運動は、非暴力的方法で為され、1991年1月にリトアニアやラトビアで、独立を阻止しようとするソ連軍の武力介入に対し、多くの市民が非暴力で抵抗した。

 これは「非暴力防衛」の実例であった。

 その結果、バルト三国は独立を勝ち取った。

 今や「非暴力防衛」は、現実的な選択肢となり得る状況にある。

 まずは「軍民協力」「軍民一体」などといった「総力戦思想」からの意識の脱却が必要である。

 また対外的な闘争(=戦争)において「非暴力・不服従」の有効性を高める為には、「市民社会」を国家を超えて拡大させ、国家の壁を無効化していく事が求められる。

 近代社会の成立以降、「市民社会」という言葉には、「人はみな平等」という価値観や、「人としての尊厳の相互承認」という理念が含まれていた。

 今後の世界では、「市民社会」の範囲を地球規模に拡大し、「地球市民」としての意識形成が求められる。

「ネット市民」の社会はグローバルであり、国境は存在しない。そして今や地球人類の大半が「ネット市民」でもある。

 如何なる状況においても「人が人を殺してはならない」事を当然とする文明に人類が到達できるとすれば、それは「地球市民」として自覚した人々の数を増やし続ける事によってのみ可能であろう。

 人が人として相互に認め合うことの出来る「地球市民社会」の形成に比例して、「非暴力防衛」の有効性は保障されることになる。

「地球社会」に生きる市民として為すべき事は、戦争や暴力的な紛争が起こらないような相互依存の構造と相互理解の関係を、国境を超えて創っていくことである。

 このように「非暴力防衛」は、文化的相互理解、非暴力的な社会の構築、経済的・社会的相互依存の推進を伴う、「国際的連帯の非暴力運動」なのである。

 そして「非暴力防衛」のシステムが全世界に拡大するにつれて、戦争というシステムもまた地上から消滅してゆくことになる。

 我が国においては、3世紀に「倭国大乱」を非暴力によって収拾し、武力ではなく「神託」による平和的統治が行われた時代があった。

 この事は、「邪馬台国の女王・卑弥呼」として大陸の「魏志倭人伝」に記録されている。

 自然崇拝や「自然との共生」の文化や生活様式を数千年にわたり続けてきた我が国には、その歴史においても「調和の原理」が根底に脈々と流れている。

 古代社会において「非暴力による政治」があり得たのであれば、同様の事は、今後の世界においても実現可能であるはずである。



「民族の消滅」か、それとも「民族の独立」か



 中国では今年3月の全国人民代表大会において、「中華民族」なるものの団結に反する言動を処罰できる「民族団結進歩促進法」が制定され、7月1日から施行されることになった。

 この「民族団結進歩促進法」は、少数民族固有の言語や文化・宗教の弾圧(=漢族への同化政策)の法制化であり、重大な人権侵害を伴う法律である。

 同法は、少数民族を漢民族へと「同化」させ、事実上、少数民族を「消滅」させる事を目的としている。

 それは明らかに、国際法で禁止されている「ジェノサイド」即ち「民族絶滅政策」に相当する。

 同法は謂わば、かつてナチス・ドイツがユダヤ民族絶滅の為に1935年に制定した「ニュールンベルク法」に匹敵する歴史的な悪法である。

 本来、中華人民共和国は56の民族から成る多民族国家である。

 ただしその内訳は、人口の9割以上を占める漢民族と、ウイグルやチベットなど55の少数民族によって構成される。

 しかしこの「民族団結進歩促進法」は、「中華民族」という架空の民族を捏造することにより、実際には55の少数民族に対して漢民族への「同化」を迫る内容である。

 この法律施行によって、中国における少数民族の独自文化と権利は完全に消滅する。

 少数民族の文化や宗教は、漢民族のものとは異なる為に、全て「違法」となり処罰対象とされる。

 さらにこの法律が執行されれば、「非漢民族」が何らかの不満を表明した場合、「分離主義者」または「テロリスト」として訴追対象となり逮捕されることになる。

 また同法には、「(中華民族の)団結を阻む外国の組織・個人に対する法的責任の追及」も盛り込まれており、国外の組織や個人に対しても「中華民族」の分裂を生み出す行為には法的責任を追及できることになる。

 例えば、チベットや新疆ウイグル、内モンゴル自治区などでの人権弾圧を非難する海外の国際組織なども処罰対象となる。

 こうした法律の管轄外適用は、明らかに「国境を越えた弾圧」に他ならない。


「民族団結進歩促進法」の主な問題点は以下の4点である。

1.固有の言語と文化の消滅危機

 同法は習近平が推し進める「中華民族共同体意識」の構築を法制度として固定化するものであり、文化的ジェノサイド(=文化の抹殺)に繋がる。

 教育や公的な場においては標準中国語(北京語)が強制され、チベットやウイグルやモンゴルなどの地域で、独自の言語や文字が失われる。

 また「文化の中国風化(=同化)」の名目で、建築物や地名に「中華民族のイメージを表現すること」が求められ、少数民族独自の歴史が破壊される。

2.宗教および歴史認識の統制

 宗教団体に対して「中華民族意識」の宣伝が義務付けられ、政府の公式な歴史解釈と異なる宗教的・歴史的認識を持つ事が処罰の対象になる。

3.国内外での言論・思想弾圧の強化

「民族団結」を口実に、文字・画像・動画などの発信が幅広く規制され、さらなる言論弾圧や恣意的な逮捕が行われるようになる。

 また「民族団結を損なう」と判断された外国の組織や個人に対しても法的責任を追及するとされている為、海外における中国政府批判に対する弾圧にも利用される。

4.台湾への政治的圧力の強化

「中華民族」の認識強化を求める条項により、台湾で広がる独自の「台湾人意識」を分離主義と見做し、台湾の政治家や個人を中国の国内法で処罰する為の法的根拠として悪用されることになる。

 同法は香港・マカオを管理対象に含めるだけでなく、台湾も一方的に「中華民族共同体」の一部として位置付けている。

 これは明らかに「台湾併合」を視野に入れた布石である。

 台湾人が一方的に「中華民族共同体」の構成員として定義されるならば、それは台湾人が「中華人民共和国の人民」として扱われる事と変わらない。


 因みに、中華人民共和国の憲法は「信教の自由」を保障し、「全ての民族は自らの言語・文字を使用する自由を有し、自らの風俗・習慣の自由を保持する」と明記している。

 従って、今回発効した「民族団結進歩促進法」は、明らかに「違憲立法」なのである。

 そこで、全ての少数民族の人々は、今後「違憲訴訟」を各地で提訴し、「非暴力・不服従」の抵抗運動を全国規模で展開するべきである。

 当然、当局は拒絶して当事者を逮捕するであろうが、そうした模様を全て動画で世界中に発信すれば良い。

 そうすれば、中国が法治国家ではなく無法国家であるという事実を、全世界が知ることになるであろう。

 逆に、もしこのまま沈黙を続けるならば、少数民族は完全に消滅させられる運命にある。

 今回の立法は、中国を「多民族国家」から「単一民族共同体」へと転換させる意図がある。

 法律による強制が進めば、多元的な民族文化や母語が存続できる空間は今後失われ、最終的には消滅させられることになる。

 さらに社会・人口政策では、相互融合型コミュニティの建設を推進し、各民族の人口を都市空間の中に混在させることによって、従来存在していた民族間の境界線を意図的に消滅させようとしている。

 これは、「民族自治区」そのものを廃止する事を目指した政策である。

 このように全ての政策は、多民族社会を単一の「中華民族共同体」という枠組みへと統合し、多元性を一元化するという目標に向かっている。

 民族ごとの言語、文化、歴史記憶は、最終的に「中華民族」という単一の虚構ストーリーへと統合されていく。

 この「民族団結進歩促進法」がもたらすのは、「多民族の多様性を認める国家」から「多様性を禁止する単一民族国家」への完全なる移行である。

 同法は「民族団結」が目的ではなく、明らかに「少数民族の絶滅」が本当の目的である。

 最早、中国共産党と少数民族との共存は永久に不可能となった。

 この事は、かつてナチス・ドイツとユダヤ民族との共存が不可能であった事と全く同様である。

 今や中国共産党は少数民族に対し、国際法で禁止されている「ジェノサイド」即ち「民族絶滅政策」を本格的に開始しようとしている。

 今後、少数民族が存続し得る道は、中華人民共和国からの「完全独立」によって「民族国家」を樹立する事である。それ以外に少数民族が生き残る方法は存在しない。

「民族の消滅か、それとも民族の独立か」

 現在、中国国内の少数民族は最大の岐路に立たされている。

 思うに、「民族団結進歩促進法」の制定は、習近平が打った最悪の「悪手(あくしゅ)」であった可能性がある。

 将棋やチェスにおいては、圧倒的に優勢だった側が、ある致命的な一手を指した事がきっかけで、逆転負けをする事がよくある。

 最も重要な事は、対局者がその「悪手」を決して見逃さない事である。

 今回、習近平が打ち出した「民族団結進歩促進法」は、逆に中華人民共和国を「内部崩壊」させる契機になり得るのである。

 この法律は「民族団結進歩促進法」という名称であるが、これはそのまま「少数民族団結促進法」へと転化し得る性質を有している。

 同法のおかげで、中国国内の全ての少数民族は「独立か、絶滅か」の選択を本格的に迫られる事になった。

 そして全ての少数民族は、各々の宗教と権利を守る為に、お互いに団結して共闘する以外に生きる道が無くなった。

 また国外の支援組織や諸団体も、今後は中国当局から「逮捕令状」が出されて訴追される分際なのであるから、国際的に連帯して、逆に「中国包囲網」を形成し共闘せざるを得なくなったのである。

 まさに危機の「機」は、機会の「機」である。

 事ここに至っては、「中華人民共和国を解体する」こと以外に真の解決策は存在しないのである。
















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