Top Page
《外部リンク》
⇒ 皇祖皇太神宮
⇒ 一般財団法人 人権財団
|
近代的世界観の超克と農業立国への道
中国の間接侵略から日本を守る為の国家戦略
[2025.7.1]
 |
中国当局が「第1列島線」と「第2列島線」を設定した真の目的は何か
|
|
「令和米騒動」の裏で進行する危機
今年は、1995年に食料管理法が廃止されて「米の流通自由化」が実現してから30年の節目の年になる。
そして奇しくも「米の流通自由化」の政策が、果たして正しかったのかどうかが問われる年になった。
5月には高騰した米価がピークに達し、それ以降、主要メディアでは「米の値段が今後どうなるか」という話題で持ち切りとなった。
5月末には、小泉農相による政府備蓄米の大量放出が実施されたが、ポピュリズムだという批判も多く、7月に控えた参院選に向けた短期的な人気取り政策に過ぎない、と分析する論者は多い。
政府による備蓄米制度は、1993年の「平成米騒動」の反省から、1995年から実施された制度である。
政府備蓄米の総量は100万トンであるが、現在のペースで放出し続けていれば、間もなく在庫の底が尽きることになる。
備蓄米の在庫が尽きた場合は、「平成米騒動」の時のように、外国産米を大量輸入する以外にない。
現在、スーパーや小売店の陳列棚には、安価な政府備蓄米と高級ブランド品の国産米が、それぞれ異なる棚に並べられている。
今日の格差社会をそのまま反映するかのように、低所得層向けには政府備蓄米を、富裕層向けには国産銘柄米を、と言わんばかりに、レジや売り場まで区別している店舗が多い。
そして近い将来には、スーパーや小売店の陳列棚には、政府備蓄米に代わって大量の外国産輸入米が並ぶことになると予想される。
もしそうなれば、消費者の大半は安価な外国産輸入米を買うようになる為、国産米は贅沢品あるいは奢侈品としての扱いになってゆくだろう。
なおこうした事は、肉や魚などでも、これまで普通に行われてきた。
スーパーの肉や魚の売り場では、安価な外国産の輸入品が、並べられる先からどんどん売れてゆく一方で、高額の国産品は棚ざらし状態にある。
そして今後は、米も同様の状況になると考えられる。
今回の「令和米騒動」に見られるように、短期的な市場原理だけで米が評価されるようになれば、単純に「米は安い方が良い」という論理が支配する。
富裕層はともかく、平均的家庭であれば、たとえ備蓄米であろうと、外国産米であろうと、より安い米を選択する事は当然である。
現在、米の「国際平均価格」は、5キロで500円~750円である。これが海外での小売価格である。
これに5キロ当たり1705円の関税を上乗せしたとしても、輸入米は国産米よりもなお低価格である。
そのため、たとえ高額の関税を上乗せしても、大量の外国産輸入米を入荷して日本市場で販売したいと考える大手流通業者は数多く存在する。
そして近い将来、輸入米が国内市場に出回るようになれば、各スーパーや各小売店は、他店舗よりも少しでも安くしようと、米の値下げ競争に走ることになる。
そうなれば、確実に米価は下落の一途を辿り、その結果として、米農家の廃業が相次ぐ事になるだろう。
このように日本の農業が、世界の自由市場経済に晒された場合、国際競争に打ち勝つ見込みのある地域は北海道だけである。北海道以外の地域は、ほぼ完敗である。
特に、日本の国土面積の約7割を占めている中間山地エリアでの小規模零細農家は、廃業するしかないであろう。
かくして今後、日本の国土は耕作放棄地で溢れ返ることになる。
これは、日本の「国土買収」を企図する中国にとって絶好の機会となる。
近年、過疎地の農地や耕作放棄地の中国資本による買収が全国規模で進行している。
これは「令和版・囲い込み」と呼ばれている。
だが、こうした動向がもたらす重大な意味を、政治家も官僚も全く理解出来ていない。
我が国にとっての真の危機はそこにある。
「令和米騒動」の裏で密かに進行する外資による土地買収の実態について、国会やメディアで論じられる事はほとんど無い。
しかしながら、この事態は国家安全保障に関わる深刻な問題である事を知らねばならない。
海上封鎖による日本支配計画
現在、「令和米騒動」を契機として、米の流通の再編が加速しつつある。
大手流通業者による垂直統合が進み、個人経営の小規模の米農家は、作った米を安く買い叩かれる。
米作りの採算が合わなくなれば、小規模米農家の廃業が相次ぎ、日本国内から米作りが消滅してゆく。
すでに稲作経営主の全国平均年齢は70歳を超えており、稲作就業者の高齢化は今後もさらに進む。
必然的に、全国各地で耕作放棄地が増え続けることになる。
「歴史は繰り返す」と言われるが、現在の状況は百年前と酷似している。
1918年の「大正米騒動」のケースでは、ロシア革命に伴うシベリア出兵と、総合商社による米相場への投機によって、米価が異常な高騰を遂げた。
しかしその反動で、翌年には米価が大暴落し、その後は長年にわたり、米価は安値圏で低迷を続けることになった。大正版のバブル崩壊である。
米の価格が安くなり、都市部の人々の暮らしは楽になったが、一方で農村は苦しくなった。
農村の人々は、いくら懸命に働いても生活は一向に楽にならず、借金を抱えた末に娘を身売りに出さなければならない農家が続出した。
これが後に、要人暗殺やクーデターなどの昭和テロリズムを生み出す社会的土壌を形成した。
ただし現代は百年前とは違い、農村人口比率が圧倒的に少ない為、たとえ農家の廃業が増えたとしても、それが政治的テロリズムにまで発展する事は考えられない。
そのため現代の政治家達は、多くの農家を廃業させても全く気にしないのである。
終戦直後の1950年、日本の人口が8400万人だった時代、日本の農業人口は1613万人と、全人口の約20%が農業従事者だった。
それから74年を経た2024年は、人口1億2500万人に対して農業人口は88万人と、全人口の僅か0.7%にまで減少した。さらに稲作従事者に限れば、全人口の0.5%にも満たない。日本の食料自給率が低くなるのは当たり前である。
戦後間もない頃、農業従事者が多数存在した時代には、政治家の多くが農村の票田を基盤にして政界で活躍していた。
だが現在では、農業従事者の絶対数が少ない為、政治家のほとんどは「農村離れ」をしている。
JA全農の「組織票」を当てにする政治家は多いが、実際に農家の人々の声を直接聴いて政策を考える政治家は皆無である。
また農林水産省は、東大卒の官僚のほとんどが農村出身者ではなく、農家とは無縁である為、もともと農業を守ろうという気持ちなど持っていない。
そうした要因の結果として、今後日本の食料自給率は、38%よりもさらに下降の一途を辿ることになるであろう。
因みに米国の食料自給率は104%、フランスは121%、オーストラリアは233%である。
このように、先進国では食料の完全自給が当たり前なのである。
だが日本政府は、とりわけ1990年代以降、日本の農業の為ではなく、米国の農業を守る為に、ひたすら「減反政策」を続けてきた。
米国から要求された「貿易不均衡の是正」を実施する為に、日本政府は国内農業を犠牲にして、米国産の農産物を大量に輸入する事を認めたのである。
かくして我が国は、先進国で最下位の食料自給率の国になってしまった。
今や日本は、海外からの輸入が全面停止した場合、3人の内2人が餓死することになる。
もし日本を征服し占領したい国があれば、わざわざ武力で戦争を仕掛ける必要など無い。
日本列島を「海上封鎖」して兵糧攻めにするだけで、日本は降伏せざるを得なくなる。
日本に侵略する際に軍事力などは不要であり、「海上封鎖」を実施して日本への輸入をストップさせるだけで、日本を支配下に置く事が出来るのである。
食料自給率がほぼ100%であった江戸時代でさえ、享保・天明・天保の三大飢饉では、全国で数十万人単位の餓死者を出した。
しかしながら1993年の「平成大飢饉」においては、タイ産米やカリフォルニア米などを海外から大量に輸入する事によって、一人の餓死者も出さずに済んだ。
このように「平成大飢饉」において餓死者が出なかったのは、世界の自由貿易体制のおかげであった、という事実を忘れてはならない。
だが、自由貿易制度は決して自然に存在するシステムではない。
食料もエネルギーも自給出来ない日本は、海外から物資が入らなければ、国民生活は破綻し、大量の餓死者が発生することになる。
しかも日本の農業事情は、化学肥料原料がほぼ100%輸入依存、野菜の種が90%輸入依存である。
国内農業でさえ、海外からの輸入に頼らなければ成り立たないのである。
こうした状態で、もし日本列島が「海上封鎖」された場合、日本は手も足も出せない状態に陥り、完全に相手国の支配下に置かれることになる。
中国が日本近海に「第1列島線」と「第2列島線」を設定し、その周辺で頻繁に中国艦船を航行させているのは、日本列島を「海上封鎖」するための軍事演習に他ならない。
中国当局が設定した「第1列島線」と「第2列島線」については、表向きは「中国と米国との太平洋の分割案」という建前になっているが、実際は「日本列島の海上封鎖」を目的とした図上戦略ラインである。
なお「海上封鎖」の演習は、通常の軍事演習とは異なり、艦砲やミサイルを一発も発射することなく、粛々と進められる為、多くの人は気付かない。
そして、こうした「海上封鎖」の準備と同時に進行しているのが、中国による日本の「国土買収」である。
中国人が買った日本の土地は「中国領土」に
近年、米の生産基盤である農地そのものに、外国資本による買収が進んでいる。
そして外資による農地買収の大半が、中国法人の名義で土地取引が実施されている。
首都圏だけでも、千葉県では2022年に、中国法人が約4000平米の農地を取得した。
また埼玉県では2023年に、中国籍の個人が計7000平米、中国法人が計7200平米の農地を取得した。
さらに神奈川県では2023年に、中国籍の個人が、計2500平米の農地を取得した。
専門家によると、中国籍の個人や中国法人によって実際に買われた日本国内の農地は、1万5千ヘクタールを遥かに超えていると推定される。
中国人の土地取得をめぐってはこれまでも、北海道での中国資本による森林買収やリゾート地買収などが問題視されてきた。
こうした中国資本による日本の農地買収が本格的に始まったのは2008年である。
しかも土地買収は、北海道から九州まで、全国各地に広がっている。
そして今や、過疎地の上流部にある限界集落の農地や半島部の農地までが中国法人に買収されている。
「日本の農地買収の黒幕は中国の上海電力だ」という説が流布された時期もあった。
上海電力が、自社製の太陽光パネルを敷き詰めて発電事業を実施する目的で、日本の耕作放棄地を買い漁っているという説には説得力があった。
ただ不思議なことに、それら中国法人は、日本中の農地や山林を買収した後は、太陽光発電どころか、農業すらしないで、ただ土地を抱え続けているだけなのである。
次から次へと日本国内の農地を買い漁り、しかもそれらの土地を活用もせず、寝かし続けている、というのは極めて不自然である。
しかもこうした令和版の農地「囲い込み」は、資金の出所が不明な農地買収である。
日本国内においては、今後、廃業農家のさらなる増加が見込まれる為、全国の大量の耕作放棄地が、中国籍の法人によって、さらなる安値で買い叩かれる事が予想される。
このように外国人が土地を無制限に売買出来る国は、世界中で日本だけである。
将来、日本の国土のほとんどが外国人の所有になるという事態も、十分にあり得る事である。
現在、日本の主要上場企業の大半が外資に乗っ取られている事は、「会社四季報」の株主構成欄を見れば明らかである。
日本の企業が外資に買収されているのであれば、日本の土地が外資に買収されていても全く不思議ではない。
ただし深刻な問題は、私企業の買収とは異なり、土地の買収は「国土の買収」を意味する事にある。
因みに中国人の領土意識では、中国籍の個人や法人が購入した外国の土地は、全て「中国領土」である。
従って彼等にとっては、中国人や中国法人が日本国内に所有する土地や不動産は、中華人民共和国の「飛び地」なのである。
もし中国資本による日本の農地買収がこのまま進んだ場合、日本産の農産物が中国共産党による統制経済下に置かれる可能性さえある。
言うまでもなく、中国は自由主義経済の国家ではない。
中国は共産党の指示ひとつで、いつでもどこでも統制が可能な全体主義国家である。
21世紀に入ってからは、中国では「国防動員法」や「国家情報法」が成立し、たとえ国外に住む中国国民であっても、平時・戦時を問わず、北京政府の指示があり次第、いつでも中国の国家の為に活動しなければならない事になっている。
因みに中国人民解放軍には、「超限戦」という戦争概念が存在する。
「超限戦」とは、現代の戦争を、あらゆる手段で制約無く戦うものとして捉え、通常戦、外交戦、国家テロ戦、諜報戦、金融戦、サイバー戦、法律戦、心理戦、メディア戦など無限の手段を通じて、全方向において戦うべきとする多元的で多層的な戦争概念である。
「超限戦」は英語では `Unrestricted Warfare`(無制限戦争)と訳されている。
この「超限戦」においては、「戦時」と「平時」の区別が存在せず、「軍人」と「非軍人」の境界も無い。従って、戦時国際法やジュネーブ条約等の近代国際法は一切適用されない。
中国人民解放軍が「超限戦」の概念を最初に採用したのは1999年であり、それからすでに四半世紀が経過している。
これまでの四半世紀にわたる中国の所業を見れば、中国が「超限戦」を国家戦略の中心に位置付けてきた事がよく分かる。
従って、中国の日本に対する「宣戦布告なき侵略戦争」は、とっくに開始されていたと見るべきである。
日本と中国とは「超限戦」の次元において、すでに「交戦状態」にあるという現実を知らねばならない。
現在、「超限戦」の一環として中国当局が実行している戦略の一つが、日本の国土買収による「日本占領」である。
日本全体の食料自給率は38%であるが、全国の農地の26%以上を占める北海道だけを見れば、食料自給率は216%もある。
だが、かりに北海道の広大な農地が中国法人に買い取られて「中国領」になった場合には、日本の農業は完全に崩壊し、食料自給率は1ケタ台に陥るであろう。
1950年代に毛沢東が大躍進政策で「餓死政策」を実行したように、近い将来、中国の習近平が日本に対する「餓死政策」を実行に移す可能性は十分にある。
毛沢東崇拝者である習近平は、毛沢東と同じ政策を実行する事に躊躇はしない。
また中国の若年層世代の大半は、「南京大虐殺」や「731部隊」について、日本人に対する根強い報復感情を抱いている。
中国が仕掛ける「超限戦」に基づく「日本餓死計画」は着々と進行している。
それにも関わらず、何の対策もしない日本政府の責任は厳しく追及されなければならない。
あくまで日本政府が、自由市場経済を貫く方針だと言うのであれば、「相互主義」の原則をも徹底させなければならないはずである。
日本は通商などで相手国の日本への待遇と同様の待遇を相手にも付与する「相互主義」の立場に立つ。
従って、中国企業が日本の土地を自由に購入出来るのであれば、同様に日本企業も中国の土地を自由に購入出来なくてはならない。
しかしながら、相手が中国のような共産主義国家であれば、日本の法人や個人は中国の土地を取得出来ない。
このような場合には、日本政府は中国籍の個人および法人に対し、日本の土地購入を全面禁止する措置を執らなければならない。
そうした対応こそが本当の「相互主義」であり、公正な自由貿易を回復する立場からも正当な行為なのである。
2025年現在、我が国には外国人の土地買収を規制する法律が無い。
2022年に成立した「重要土地等調査法」は、ほとんど骨抜きの法律であった。
同法によって出来る事は、土地利用状況の調査に限られており、規制区域は重要施設の周囲わずか1キロ四方に過ぎず、しかも売買規制に関する規定が存在しない。
そのため、外国資本によってどれだけ土地買収されているのかという実態把握すら困難なのである。
日本人が気付かない内に、日本の農地や耕作放棄地が次々と中国法人の所有となり、「中国領」にされてしまっているのが実情である。
もし日本の行政が、国際標準の国土管理すら出来ないのであれば、やがて日本の国土の大部分が中国資本に支配され、「中華人民共和国の領土」になってしまうであろう。
かくして中国の「土地買収による日本占領」が実現する。
そしてその責任は全て、これまで怠慢を続けてきた日本政府にあると言わざるを得ない。
近代的世界観を超えて農業を基幹産業に
こうした事態を防ぐ為に日本政府が為すべき事は、
① 外資に買収された土地の回復
② 農業の復興による食料完全自給の実現
である。
これは、国家安全保障の観点からも極めて重要な課題である。
中国から仕掛けられた「超限戦」に対抗する為には、我が国も国家のリソースの総力を注いで取り組まなければならない。
第一の課題である「外資に買収された土地の回復」については、まずは外国資本による土地買収の実態を解明し、外資の土地所有を規制する事こそが、行政が最優先で為すべき重大責務である。
それには、各地の農業委員会や自治体職員を総動員して徹底的に調査し続けることが必要である。
かつて2007年に「年金記録問題」が発生した際には、国と地方自治体とが連携しながら、全力を挙げて解明に取り組んだ。
当時、人手が足りない場合には、臨時採用を増やしたり、業務の一部を民間に委託するなど、昼夜を問わず懸命に行政府は対応していた。
その結果、もし行政が本気になった場合には、それくらいは出来るという事が証明された。
そこで、今回の「令和米騒動」を契機として、行政は本気で「外資による土地買収」に関する事実解明に取り組むべきである。
とりわけ日本国内における中国資本による土地所有の実態を徹底的に調査し、早急に対策を講じなければならない。
第二の課題である「農業の復興による食料完全自給の実現」については、まずは「農業を日本の基幹産業とする」という国家方針を打ち出し、政治家や官僚のみならず、国民全体で共有する必要がある。
今後の日本が進むべき道は、「経済大国」ではなく「農業立国」である。
我が国が「農業立国」として目指すべき喫緊の目標は、現在僅か38%の食料自給率を100%以上にまで引き上げ、完全自給体制を実現する事にある。
これはどの先進国でも当たり前にやっている事である。
食料の完全自給が実現すれば、たとえ日本列島が他国によって海上封鎖されたり経済封鎖を受けたとしても、我が国が他国からの支配を受ける事は無い。
国家安全保障の一丁目一番地は、「食料の完全自給」にある事を知らねばならない。
中国が、日本の土地買収と海上封鎖による「兵糧攻め」で日本占領を企図している以上、国内農業の復興と食料の完全自給こそが、真の国防である。
旧式モデルの兵器や防衛装備品を、米国の軍産複合体から法外な高値で買わされている予算があるのならば、むしろその予算を農業復興の財源に充てるべきであろう。
使い物にならない兵器を買うよりも、その資金で国内農業を再建する事の方が、安全保障上、遥かに有効である。
「農業立国」の意義は、「国づくりの原点」に立ち返って考えれば明白である。
国家の統治者にとって、最低限やらなければならない絶対的な義務は、「国民を飢えさせない事」にある。
古来より、これが出来なかった統治者は必ず滅んできた。
食料は他の物資や商品とは異なり、供給が途絶すると国民の生命が失われる。
たとえ他の物事が不十分であったとしても、国家の統治者は、国民の食料だけは必ず確保するよう努めなければならない。
万一、統治者が「国民の食料確保」という最低限の義務すら果たせない場合には、国民は統治者を取り換える権利がある。
現代ではその手段として、国政選挙という制度が存在する。
そして統治者の第二の義務は、「食料を他国に依存してはならない」という事である。
食料を他国に依存するようになれば、政治も他国に従属せざるを得なくなる為である。
国家の独立を維持する為の必須条件は、食料の完全自給にある。
これが失われた国家は、必ず他国の支配を受けることになる。
そのため世界の先進国のほとんどは、食料自給率100%以上を実現している。
だが食料自給率38%の日本は、国民が求めるだけの食料を国内で作る能力すら存在しない。
しかもその事について、日本の政治家も官僚も全く危機感を持っていない。むしろこの事態こそが、日本にとって真の危機であると言える。
政治家は、少数派である農家の人々の声など聴くことが無く、また農水省は三流省庁として軽視されている上、肝心の官僚も農業には関心が無く、退官後の天下り先の利益の事だけを考えている。
政治家や官僚がこのような状態を続けていたら、日本は間違いなく亡国に向かって転落するしか無いであろう。
GDPはインドにも追い抜かれて世界第5位であり、我が国はすでに「経済大国」ではない。
先端技術分野でも、日本は世界水準から取り残され、半導体技術は台湾のTSMCなどに大きく水を開けられている。
また日本の人口は、21世紀末には5000万人にまで減ると予測されている。
今後、もはや日本は「経済大国」に復帰できる見込みは無い。
明治維新以降、我が国は「富国強兵」「殖産興業」を国家目標として、脇目も振らずに邁進してきた。
そして戦後は「所得倍増」を目指し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれるまでに至った。
このように、これまで150年間の日本は、近代化と経済成長をひたすら追求し、それ以外の国家の在り方を知らずに走り続けてきた。
そのため、とりわけ1960年代から90年代までの期間は、農業を犠牲にする形で、国家の重要リソースを重工業や建設業や金融分野ばかりに傾斜配分してきた。
理由は単純で、その方がGNPやGDPの数値が上がり、経済成長率も伸び、株式指標も向上したからである。
逆に農業の場合は、たとえ増産に努めたとしても、経済成長の指標や数値にはほとんど反映されない。
かくして戦後日本は、「経済大国」としての条件を満たす「数値」ばかりを伸ばし続け、一方で国家の本来の基幹産業であるべき「農業」を衰退させ続けてきた。
その結果、我が国は、国民が必要なだけの食料を国内で作る能力すら失われてしまったのである。
そして現在では、中国からの間接侵略に晒される危機的事態にまで陥っている有り様である。
今や「大国」でもなく「先進国」でもなくなった日本は、「経済力」のモノサシで国家の価値を測る事をやめるべきではないだろうか。
国家が没落しつつあるこの機会に、本当の意味での国づくりの原点に立ち返り、国家の在り方そのものを考え直す事が必要である。
「経済力」のモノサシだけで測るならば、すでに日本は三流国家でしかない。
だが、人類の長い歴史において、世界中の全ての国が、常に経済成長を目指してきたわけではない。
「経済力」のモノサシで国家の価値を決めたり、人間の価値を経済的数値に置き換えて判断する慣習は、近代に入って初めて登場した悪弊であって、決して人類の歴史において普遍的な事ではなかった。
近代人にそうした悪習慣をもたらしたのが、近代的世界観、即ち「デカルト・ニュートン的世界観」であった。
「デカルト・ニュートン的世界観」は、全ての存在を「数値」に還元して世界を解釈しようとする極めて単細胞な思考方法である。
そこでは「質」の価値などは一切排除される。
そうした単細胞で一面的な思考方法が、近代人を支配し、近代世界の在り方を規定してきた。
かくして全ての存在が「数値」に置き換えられた結果、その「数値」の多寡を巡り、殺人から戦争に至るまで様々な争いが派生した。
謂わば「デカルト・ニュートン的世界観」こそ、近代世界における諸悪の根源であったと言える。
「デカルト・ニュートン的世界観」は、決して人類史における普遍的な世界観ではない。
近代以来の世界が行き詰まりを見せている今こそ、物事の価値を「数値」でランク付けするという慣習を捨て去り、「質」で評価をする価値基準やモノサシと取替えなければならない。
そして国家の価値も、経済的な「数値」ではなく、「文化」や「道義」といった「質」で評価されるべきである。
日本再生の第一歩は、こうした価値観の転換、即ち「モノサシの取替え」から始めなければならない。
そこでこの日本再生への道は、農業を国家の「基幹産業」と位置付けて、本格的に農業の再興を推進することから始まる。
農業は、経済成長とは無縁であるが、国民に共同体意識と人間性の回復をもたらすであろう。
その上で我が国は、農業文化に根付いた「文化国家」あるいは「道義国家」を目指すべきである。
我が国の米農業は、水田232万ヘクタール(農地の54%、国土の6%)という大面積に及ぶ「土地型産業」である。
その水田には、春から夏にかけて一面に水を張り貯める。これは「水源涵養機能」という公益的機能を有する公益型産業でもある。
米農業が重要である理由は、食料供給という役割のみならず、国土保全機能を発揮する上で不可欠な資源循環型の持続的産業である為である。
過去二千年にわたって米農業が日本の中心産業であった理由には、こうした背景がある。
このような重要な機能は、決して数値化されない。
だが、そうした数値化されない機能の中にこそ、本当に貴重で大切な要素が含まれているのである。
確かに農業に多くの国家予算を注ぎ込んでも、経済的リターンは、他の産業ほどは得られないと思われる。
だが農業には、経済的リターン以上の大きな価値が存在する事を知らねばならない。
それでも経済指標に固執したいのであれば、先ずは食料自給率を先進諸国並みの100%以上にしてからの話である。
農業軽視の政治は、必ず国家を滅ぼす。
世界最大の経済大国である米合衆国でさえ、連邦政府が常に国内農業を保護し続けてきたという事実に学ぶべきであろう。
経済至上主義のモノサシを捨て去り、たとえ貧しくとも「質」を重んじる文化的で道義的な国家として世界の中で輝きを保ち続ける事こそが、日本人が今後目指すべき「国づくり」である。
|
|
|