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緊縮財政派が考える「令和版・政治改革」

財政再建を実現するための提言

[2024.4.1]



「令和版・政治改革」が求められる国会
Photo(C)Wikipedia


先進国の議会における対立構図


 欧米をはじめ先進諸国では、いずれの議会においても、「積極財政派」か「緊縮財政派」か、という二極対立の構図が必ず存在する。

 言い換えれば、「大きな政府」を目指すか、「小さな政府」を目指すか、という普遍的な対立図式である。

 米国の場合は、民主党が「大きな政府」を目指す積極財政派で、共和党が「小さな政府」を目指す緊縮財政派である。

 また英国では、労働党が積極財政派で、保守党が緊縮財政派である。

 一方、EU諸国の場合は小党分立の議会が多いが、いずれの党もそれぞれ旗幟を鮮明にしており、積極財政派と緊縮財政派とに明確に分かれている。

 かつての日本では、初の普通選挙が施行されてから二二六事件までの議会制民主主義の時代は二大政党制の国会であり、高橋是清らの政友会が積極財政派で、井上準之助らの民政党が緊縮財政派であった。

 国民の代表が集まる議会において、「積極財政派 VS 緊縮財政派」の対立構図が存在しない国は、およそ「民主的」とは言えず、中国やロシアのような専制主義の国と変わらないことになる。

 では、今日の我が国の場合はどうか。

 現在の日本の国会は、与野党のいずれも「バラマキ」を目指す積極財政派の政党ばかりである。

「小さな政府」を目指す緊縮財政派は、今の国会の中には見当たらない。

 あるいは、心情的には緊縮財政派であっても声を出せない人達がいるのかも知れないが、発言しない事は存在しない事と同じである。

 いずれにせよ今の日本の国会には、先進国に本来あるべき上記の対立構図が存在しない。

 そのため、有権者にとっては自民党以外の選択肢が無いのである。

 有権者から見れば、「バラマキ政党ばかりなら、自民党だけで良い」という事になる。

「自民一強」と呼ばれる現象が生じるのは、当然の結果である。

 野党の存在意義は皆無であり、多くの日本国民にとって、野党は「あっても無くても良い」程度の存在に過ぎない。

 一例を挙げるなら、現在岸田内閣は助成金をエサに、国内企業に対して「賃上げ」を要求している。

「賃上げ」要求の理由は、単に「物価が上昇しているから」というだけのものである。

 しかしながら現在の国内の物価上昇は、円安に伴う原材料等の輸入物価の高騰が原因であり、典型的なコストプッシュ型インフレである。

 決して経済成長や好景気による物価上昇ではない。

 コストプッシュ型インフレの状態で、国内の各企業が「賃上げ」を強要された場合、近い将来に中小企業は破綻し、大企業ではリストラの嵐となる事は確実である。いずれ国内には大量の失業者が溢れるであろう。

 そもそも政府が民間企業に対して「賃上げ」等を要求する事自体が、自由主義経済のルールに違反する越権行為である。我が国は社会主義国ではないのである。

 本来ならば、国会内で野党から猛反対の声が上がって然るべき状況であろう。

 にも関わらず、共産党も含む全ての野党が、政府に「右へならえ」で、声を揃えて「賃上げ」を唱えている始末である。

 これでは翼賛体制そのものではないか。

 すでに全ての野党が自民党の亜流に過ぎず、それぞれ表現の仕方が違うだけで、結局はどの政党も同じ事を言っているだけなのである。

 何よりも問題は、こうした自民党と野党との共犯関係によって、政権へのチェック機能が働かず、国民生活が一方的に破壊され続けている事である。

 事実上、現在の国会に本物の「野党」は存在しない。

 今、国会は「裏金事件」で大いに荒れており、本来なら間違いなく政局になる事態である。

 もしここで本格的な野党が存在していたならば、確実に政権交代が可能だったであろう。

 しかしながら、現状において政権交代の可能性は全く無い。

 今の我が国の政治に必要な事は、「小さな政府」を目指す本物の野党の建設である。

 即ち、国民に「真の選択肢」を与える事こそが、日本の民主主義にとって最大の課題なのである。



諸悪の根源「政党交付金」を廃止すべし



「小さな政府」を目指すという基本理念から俯瞰するならば、現在問題になっている「裏金問題」についても、今後どのように対処すべきかが、自ずと明らかになる。

 政治資金規正法では、原則、公職の候補者に対する寄付を禁じている。

 ただしその例外が、政党による政治家個人への寄付である。これが「政策活動費」として利用されている。

 このような例外を作ったこと自体が大間違いであった。これは、合法的に裏金を認めているのと同じである。

 自民党幹事長だった二階氏に対し、自民党本部は5年間で50億円を「寄付」していた。だが、受け取った二階氏の方には収支報告の制度が無く、何に使ったのかを書く必要も無かった。

 しかもこの政策活動費の原資については、税金ではないかとの疑問も持たれている。

 自民党本部は、毎年160億円超の「政党交付金」を国から貰っており、収入の約7割を「政党交付金」に依存している。

 国から各政党に交付される「政党交付金」の総額は年間約315億円であるが、その半分以上が自民党に与えられているのである。

 謂わば自民党とは、「国民の税金によって支えられている政党」なのである。

 従って「自民党の資金」と言う場合、その実体は「国民の税金」でもあるのである。

 年間160億円超に上る膨大な資金を毎年自動的に受け取れるのであれば、いくらでも裏金を作れるだろうし、党から政治家個人への「寄付」もやりたい放題となる。

 そもそも国から貰っている「政党交付金」が党内に潤沢にあったからこそ、政治資金パーティーの際に政治家個人への「キックバック」もあり得たのである。もし党本部に金が無ければ、「キックバック」そのものが無かったであろう。

 因みに「政党交付金」の総額を、衆参両院の議員数で頭割りすれば、議員一人あたり年間4300万円超の金額になる。これは議員歳費の2倍以上である。

「裏金事件」の本当の問題は、パーティーや献金のレベルの話ではない。

 諸悪の根源としての「政党交付金」の存在こそが大問題なのである。

 裏金や使途不明金が簡単に作れてしまう根本原因は、国民の税金から拠出される「政党交付金」の制度にある。

「政党交付金」については、かつて金丸信が「泥棒に追い銭だ」と警告していた。まさに今、その警告が的中しているのである。

 何よりも問題なのは、「政党交付金」の制度設計である。

 世論調査を見ると、現在は無党派層が一番多い。

 しかしながら最も多い無党派層に対して、「政党交付金」は1円たりとも供給されない。

 これ自体が大きな矛盾ではないか。

 国会においては、本質的な議論が全く為されていない。

 そもそも1990年代の政治改革において、「選挙に金がかかるから、国が政党交付金を出す」という制度にした事自体が大間違いであった。

 選挙に金がかかると言うのであれば、「金のかからない選挙制度」に変更する議論をもっと徹底させるべきであった。

 結局、当時は「金のかからない選挙制度」として、現行の小選挙区比例代表並立制が採用されたのであるが、所詮は妥協の産物に過ぎなかった。

 それから30年間の試行錯誤の結果、やはり小選挙区制でも金がかかるという事実が明白になった。

 今日のように裏金問題が噴出する事自体、小選挙区制であっても選挙に金がかかるという証拠である。

 また金がかかるが故に、世襲議員が増える一方なのである。

 今こそ「最も金のかからない選挙制度」への変更を、再び国会において議論すべき時機である。

 そして「最も金のかからない選挙制度」の導入と共に、「政党交付金」を全廃しなければならない。

 現在国会で問題になっている「裏金事件」を契機として、新たな選挙制度改革を伴う「令和版・政治改革」の議論へと発展させてゆく必要がある。



「国民主権」の原則に反する現行の選挙制度


 ここでは、緊縮財政派の立場から「小さな政府」を実現する為の選挙制度について考える。

 リクルート事件に端を発した1990年代の政治改革では、金のかかる中選挙区制度が問題視され、小選挙区制が導入された。

 だが、今回のような「裏金事件」を政治家が起こした以上、90年代の政治改革は失敗だったという結論にならざるを得ない。同様に導入された政党助成金制度も効果が無かった。

 そもそも何故、小選挙区制になったら「金のかからない選挙」が出来ると考えられたのか、全く根拠が無い。

 本当に「政策」を争う選挙に変えてゆくのであれば、小選挙区制ではなく、「完全比例代表制」を導入するべきである。

 金をかけることなく、純粋に政策だけで勝負するには、完全比例代表制が最適である。

 オランダでは、1917年から現在に至るまで、1世紀以上にわたって完全比例代表制の国会が運営されている。また、スウェーデンの国会も完全比例代表制である。

 ただし完全比例代表制は、「小党分立」になりやすいと批判される事がある。

 しかしながら、国会が「政策を競い合う場」であるとすれば、小党分立による緊張関係は、むしろ国会の在り方として望ましいと言える。

 現在の日本のような一党支配の政治であれば、国民の声が国会に届く事はほとんど無い。

 それに対し、小党分立の国会になれば、国民の意見が政治に反映される機会が増えることになる。

 来たるべき「令和版・政治改革」では、小政党でも政治に参加しやすくし、政策選挙を活発化させるようにしなければならない。

 完全比例代表制の場合は、投票率さえ上がれば、小さな政党でも議席を獲得しやすくなる。

 これまで選挙に関心が無かった人達も、政策や政党の選択肢が増えれば投票意欲が高まるであろう。

 何よりも完全比例代表制においては、「死に票」が無くなるという大きなメリットがある。

「死に票」が無い選挙制度は、「国民主権」の観点からも望ましい制度と言える。

 因みに、「完全比例代表制」が批判される最大の理由として挙げられるのが、「独裁政権が生じやすい」という主張であり、その根拠としてヒトラーのナチス政権成立が引き合いに出される事が多い。

 だがそうした主張は全くの誤りであり、完全比例代表制は、むしろ「独裁政権が最も生じ難い」制度なのである。

 上にも述べたように、完全比例代表制は「小党分立」になる傾向が強い。

 ワイマール体制下のドイツ国会は、完全比例代表制であったが故に、ナチス党は政権を獲得した時点においても、国会では過半数の議席を取れなかったのである。

 それ故に、ナチス党政権の成立当初は、他党との連立政権であった。

 これは非常に重要な事である。

 ナチス党がようやく国会で過半数を獲得し得たのは、国会議事堂炎上事件に伴う共産党議員の一斉逮捕の直後の総選挙においてである。

 その総選挙で過半数を得たナチス党は、直ちに「全権委任法」を国会で通過させ、一党独裁体制を樹立するのであるが、これら一連の行動は、「クーデター」以外の何物でもない。

 逆に言えば、「対立政党議員の一斉逮捕」などのようなクーデターでも起こさない限り、決して一党支配にはなり得ないのが、完全比例代表制なのである。

 むしろ現在の日本の小選挙区制の方が、一党支配のもたらす弊害が大きく、選挙制度の見直しが必要な状況にあると言えよう。

 例えば、第二次安倍政権が誕生した2012年の総選挙において、自民党は小選挙区で約4割の得票で8割近い議席を取っている。

 得票率で見れば過半数の支持さえ無いにも関わらず、3分の2の議席を占めるという事態が生じたのである。

 これらを見れば、明らかに民意が歪められた制度である事が分かる。

 さらにその後の政治の推移を見るならば、国民の半分以上が反対している法案が、次から次へと簡単に成立してしまっている。

 このように、国民と国会にねじれ状態が生まれたら、もはや「国民主権」ではあり得ない。

 これらは全て、選挙制度によってもたらされた弊害である。

 現行の小選挙区比例代表並立制や政党交付金は、いずれも「大政党に有利な制度」として設計された。

 一般に「政治が悪いのは、そんな政治家を選んだ国民が悪いからだ」と言われる事が多い。

 しかしながら、現行の小選挙区比例代表並立制では、たとえ「悪い政治家」を小選挙区で落選させたとしても、「比例で復活当選」という事例が後を絶たない。

 これでは、わざわざ「国民に信を問う」選挙を施行する意義すら失われる。

 そもそも、小選挙区で落選しても「大政党」であれば復活当選が出来るという制度自体が、選挙そのものを無意味なものにしてしまっている。

 最初から大政党に有利になるように設計された制度である為である。

 これでは、多くの人々が投票する気さえ無くし、投票率が低下するのも当然であろう。

 このように、90年代の政治改革は、設計思想そのものに問題があったのである。

 まず政治が悪いのは、決して「政治家を選んだ国民が悪いから」ではなく、「選挙制度が悪いから」であるという事実をはっきりさせなければならない。

 明らかに現行の選挙方式は、有権者の意思に背反する制度であり、「国民主権」の原則に抵触する。

 国民の意思が正確に反映されない選挙制度であれば、国民が求めていない政権が成立し、国民が賛成していない法案が簡単に通過してしまう。

 国民主権の根幹を否定するような現行の選挙制度は、一刻も早く改正されなければならない。

 選挙制度の改革は、「憲法改正」よりも遥かに緊急かつ重大な政治的課題である。

 真に国民主権を実現する選挙制度改革に向けた国民的議論が求められる。



国家財政破綻の危機をもたらした現行の選挙制度


「小さな政府」を目指す上で、完全比例代表制は非常に優れた選挙制度であると考えられる。

 まず簡単な例から挙げるならば、国会議員の歳費などを大幅削減する事が可能となる。

 日本の国会議員歳費は2千万円を超えており、世界的にもトップレベルの高額である。

 その主たる理由としては「選挙に金がかかる為」という事であったが、完全比例代表制であれば、政治家個人としては金がかからない為、議員歳費は半分以下でも十分であろう。

 また現行制度では、各国会議員に調査研究広報滞在費(旧・文書通信交通滞在費)として月100万円、会派には立法事務費として月65万円、それに加えて公設秘書2人分、政策秘書1人分の給与が、全て国民の税金で賄われている。

 これらについては全廃しても問題は無い。

 さらに完全比例代表制であれば、選挙の際に地元の「地盤」や「看板」が不要となる為、これまで親族の地盤と看板の力だけで当選してきた世襲議員がいなくなる。

 この事は、完全比例代表制の大きなメリットであると言える。

 親の地盤と看板さえあれば素行不良な問題児であっても自動的に議員になれてしまう現行の制度は、民主主義の観点からしても大問題である。我が国は封建社会ではないのである。

 また世界的に見ると「日本は女性議員の比率が非常に低い」と批判されているが、完全比例代表制であれば、それらの調整も可能となる。

 因みにオランダやスウェーデンで女性議員が多い理由は、国会の選挙制度が完全比例代表制だからである。

 世襲議員が淘汰され、女性議員の比率も上げられるのであれば、我が国において完全比例代表制の導入は十分検討に値するはずである。

 これに対して、市議選や県議選のような地方選挙の場合は、有権者が候補者名を記載して投票する従来どおりの方式が良いであろう。地方政治では、地元に密着した政治が求められ、お互いに顔が見える選挙制度が望ましいからである。

 しかしながら国政の場合は、あくまで「国民全体」の事を考え、「国家的課題」に取組む事が、国政政治家の任務でなければならない。

 さらに言うと、本来ならば国政に携わる政治家が、「地元に密着した政治」をしてはならないのである。

「地元に密着した政治」は、必ずバラマキ政治の温床となる。

 中選挙区制や小選挙区制の選挙方式は、地元に利益誘導する政治家を生みやすい制度であり、地元利権との癒着が作られやすい構造になっている。

 そこから必然的に生み出されるのがバラマキ政治であり、国家から出来るだけ多くの予算を獲得して、地元の業者達にバラ撒く事が、国政政治家にとっての中心的な活動となる。

 それらの積み重ねの結果、今日のような国家財政破綻の危機が生み出されてきたのである。

 また、現在騒がれている政治資金パーティーの裏金問題も、政治家と企業との利権絡みの癒着構造が招いた弊害に他ならない。

 かつての中選挙区制だけではなく、現行の小選挙区制もまた、これまで国家財政を食い潰し、財政破綻の危機をもたらしてきた元凶であった。

 何事も根本から原因を除去しない限り、同様の事態が繰り返されるだけである。

「小さな政府」における選挙制度は、完全比例代表制の他にはあり得ない。

 完全比例代表制が実施されれば、我が国におけるバラマキ政治の慣習は終わりを告げる。

 そして全ての国政政治家は、「地元」や「利権」などに捉われることなく、常に国民全体の事を考え、国家的課題に集中して取組めるようになる。

 またその事は一般国民にも良い結果をもたらすはずであり、「国民主権」の原則にも合致する。

 このように完全比例代表制の導入によって、「政治浄化」も「歳出削減」も実現されることになる。

 かつてリクルート事件を契機に政治改革が求められ、選挙制度改革に至ったように、今回の「裏金問題」を契機に、今後は本格的な選挙制度改革に向けた議論を発展させなければならない。

 これまでの場合、総選挙が終われば「禊が済んだ」として、疑惑関連の諸問題は終息してしまうのが通例であった。

 しかしながら、選挙制度自体に問題がある場合には、たとえ何回選挙をやったとしても、それは「禊」にはならないのである。

 今回の「裏金問題」は、本格的な選挙制度改革が実現するまで、決して終息させてはならない。

 本格的な選挙制度改革とは、完全比例代表制の導入である。

 そして、完全比例代表制の導入が必要な理由は、国家財政再建と「小さな政府」実現の為である。

 バラマキで人気を得ようとする既成政党ばかりでは、最早国民の支持は得られない。

 少なくとも他の先進諸国のように、議会において「積極財政派 VS 緊縮財政派」の対立構図が明確に形成されなければ、我が国は民主国家として認められない国になってしまうだろう。

 先ずは「小さな政府」に賛同する人々が結集し、緊縮財政派の一大勢力を形成することが必要である。



「小さな政府」のベーシックインカムは可能か?


 現在、日本経済はあたかも好調であるかのように喧伝されているが、十数年後にはAI技術の飛躍的発展に伴い、「人間の仕事の大部分が無くなる」(レイ・カーツワイル『シンギュラリティ』)という事態が予想される。

 そのため、遅かれ早かれ「ベーシックインカム(Basic Income)」の導入を検討せざるを得ない時期が到来する。この問題は、必ず国会における政治的議論にまで発展するであろう。

 一般に、ベーシックインカムは積極財政と捉えられがちである。

 確かに外見的には、ベーシックインカムは「バラマキ政策」そのもののように見える。

 しかしここでは、「バラマキではないベーシックインカム」の可能性について検討する。

 即ち、緊縮財政とベーシックインカムとが両立し得るか否か、ということである。

 もしそれが可能であれば、「小さな政府」のベーシックインカムが実現することになるだろう。

 ベーシックインカムとは、政府が国民に対して毎月同額の現金を個人に給付する「基礎的収入」のことである。

 ベーシックインカムが生活保護などの社会保障と異なるのは、収入の有無や所得の多寡に関わらず、誰もが一律に給付を受けられるという点である。また、使い道に関する制限は一切存在せず、贅沢品を買っても一向に構わない。

 文字通り、毎月決まった現金が「基礎的収入」として国から支払われるというものである。

 これまで実験的に試行された国はあるが、正式にベーシックインカムを実施している国はまだ存在しない。

 ベーシックインカムは、日本国民のみならず世界中の多くの人々が実現を願っている制度ではあるが、国家レベルではどの政府も実現には消極的である。

 その最大の理由は、どの国も「財源が無い」という点に集約される。

 だが、本当に「財源が無い」のだろうか?

 確かに、これまで日本国内で提案されてきた様々な財源案を見れば、どれもこれも陳腐な内容で、ベーシックインカムに期待する気すら無くさせるものばかりであった。

 例えば希望の党は、2017年に「月額5万円」のベーシックインカム案を国会に提出したが、その財源は「医療費を除く社会保障費を充てる」というものであった。

 月額5万円(年間60万円)を1億2000万人に給付するならば、年間72兆円の財源が必要になる。

 それを「医療費を除く社会保障費」から出すということは、国民健康保険や厚生年金保険の掛け金を全て転用することになり、それまで何十年間も掛け金を払ってきた多くの国民は大損することになってしまう。

 これは国民を怒らせるだけの財源案であり、提案者の見識を疑わせる代物であった。

 また2020年には、竹中平蔵氏が「月額7万円」のベーシックインカムを提唱して話題になったが、その財源案は、マイナンバーとの紐付けを条件に「年金と生活保護を廃止する」というものであった。

 月額7万円(年間84万円)を全国民に配るとすると、年間約100兆円が必要になる。

 しかしながら現在、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)で運用している総資金は約200兆円弱に過ぎない。

 もし竹中案のように、年金制度を廃止して掛け金の徴収も止めることになれば、ベーシックインカムの財源としては年金積立金を取り崩す他はなく、この場合は僅か2年で底が尽くことになってしまう。その後の財源はどこにも無い。

 しかもこれまで年金の掛け金を払ってきた国民に対しては、国が背任行為をすることになってしまい、収拾がつかなくなるであろう。もし実行に移した場合には、全国各地で騒乱を誘発するような提案であった。

 日本の社会保障制度は、国民皆保険と年金の掛け金が源泉になっている。

 万一、政府がそれを使って別目的に流用するならば、国家犯罪である。

 このような非常識な提案ばかりが取沙汰されていれば、やがてベーシックインカムに賛成する人はいなくなるであろう。

 そもそもベーシックインカムの本来の目的は、国民の生活を安定させ、飢餓や貧困を無くす事にあったはずである。

 そうであるならば、ベーシックインカムの財源は、決して国民の負担や損失を伴うものであってはならない。

 もし国民の負担や損失を伴うような制度であるならば、ベーシックインカムを実施する意義そのものが失われる。

 さらに言えば、ベーシックインカムの財源は、国債や税収にも頼ってはならない。

 こう言うと、「そんな事が出来るはずがない」と、多くの人々は反論するであろう。

 確かに、既存の常識の範囲内で考える限りは、国債にも税収にも依拠せずに財源を確保する事など不可能である。

 しかしながら、そうした既成概念こそが、これまでベーシックインカムの実現を阻んできた元凶であったと言える。

 実は、我が国には確実な財源が存在する。

 これまで日本銀行が実施してきた「量的緩和」の供給資金(年額120兆~150兆円)である。

 この量的緩和資金を、全額ベーシックインカムに回せば良いだけである。



日銀が実行するべき「第三のマネーサプライ」


「黒田バズーカ」や「異次元の金融緩和」として知られる量的緩和政策は、2013年以降、10年以上にわたって実施されてきた実績がある為、これは間違いなく存在するベーシックインカムの「財源」である。

 量的緩和資金を財源とするならば、国民に一切負担を掛けることなく、毎月一律10万円(年間120万円)を全国民に給付することが可能となる。

 年間120万円を1億2千万人に給付するならば、1年間に必要な財源は144兆円である。

 これは、日銀が年間に国債買取りに使っている金額にほぼ相当する。

 つまり、ベーシックインカムの財源は確実に存在するのである。

 この場合、「では、日銀の量的緩和政策はやらなくていいのか?」と反論されるかも知れない。

 だがその答は、「やらなくて良い」のである。

 そもそも「量的緩和」など、本来やってはいけない事なのであった。

 中央銀行は、あくまでも「金利政策」によって市場の貨幣供給量を調整する事が本来の任務なのであって、国債買取りなどの行為は財政規律に反する「禁じ手」なのである。

 中央銀行が、金利政策だけでは行き詰まってどうしようもなくなった際に、やむを得ず民間金融機関から国債を買取って市場に貨幣を供給しているのが量的緩和政策である。

 ただし中央銀行に認められているのは、既発債の買取りのみであり、新発債の買取りは法律で禁止されている。

 そこで実際には、政府が発行した新発債を民間金融機関が大量に買付け、後からそれらを日銀が民間金融機関から買取っている。

 形式上は、日銀が市場から既発債を買取っている為、一応合法ではあるが、実態は新発債の日銀引受け(=日銀から政府への直接融資)とほとんど変わらない。

 民間金融機関は、新発債の買付け価格と日銀への売却価格との差額が利益になる為、新発債の買付けと日銀への売却を繰り返せば繰り返すほど、民間金融機関は儲ける事が出来る。

 その結果、今や発行済み国債の約半分を日銀が買取っているという異常な事態にある。

 本来、量的緩和の目的は、市場に資金を流通させる事によって、民間経済を活性化させることにあったはずである。

 そうした目的の為に、日銀は円紙幣を印刷し、その円で民間金融機関が保有している国債を買い上げてきたのである。

 日銀が民間金融機関から国債を買取れば、民間金融機関は手持ちの現金が増える為、より多くの企業や個人に対して融資が出来るはずであった。

 そうして民間企業や一般の人々の手元に現金が行き渡れば、再投資に回すことも出来、消費も増える為、必然的に日本経済は活況を取り戻すことが出来るはずであった。

 しかしながら、実際には全くそうはならなかった。

 なぜならば、民間金融機関は国内向けに融資などせず、金利の高い海外で資金運用をしてきたからである。

 量的緩和によって増えた円は、国内銀行から外資系ファンドの手に渡り、割安になっている日本の上場企業の株式が外資によって買い漁られる結果になっている。

 現在の日経平均株価の高騰の原因は、「日本経済の復活」の反映などではなく、外資系ファンドが大量に溢れた円を利用して荒稼ぎしているだけの事である。

 このように、日銀が印刷した円の多くは、民間金融機関を経由してハゲタカファンドの手に渡り、日本が安値で買い叩かれているだけなのである。これが現在の異常な円安・株高現象のカラクリである。

 そうは言っても、民間金融機関ばかりを責めるわけにはいかない。

 民間金融機関も一般企業と同様、利益を出さなければならないからである。

 たとえ企業や個人に融資しても焦げ付くばかりで回収不能となれば、融資などやめて資金運用に専念した方が良いと判断するのも止むを得ない事である。

 逆に、思い切ってスルガ銀行のように無茶な融資をやらかした場合には、行員から逮捕者を出したり、社会問題になって世間やマスコミから叩かれるだけなのである。

 そのような事態を回避するには、金利の高い海外で資金運用するか、あるいは新発債を大量に買付け、それを丸ごと日銀に売って利益を積み重ねてゆくのが最も安全で確実な方法ということになる。

 かくして日銀が放出した膨大な円の大部分は、民間金融機関から海外ファンドに渡り、それ以外の資金は、民間金融機関が再び新発債を買って国庫に収まっている。

 国内において「トリクルダウン」が起こらなかったのは当然である。

 このように、年間150兆円に上る量的緩和の資金は、本当にお金を必要としている中小企業や一般国民の手元には、ほとんど渡ることがなかったのである。

 それならば、その年間150兆円を、そのままベーシックインカムの財源にした方が遥かに良いのではないか。

 要は、日銀が既発国債を民間金融機関から買い上げる為の資金を、全国民一人ひとりの銀行口座に直接振込むように変更するだけの事である。

 現在はAI技術も進歩している為、国民全員の銀行口座への直接振込みに大した手間はかからない。

 そもそも中央銀行の本来の使命は、市場にマネーサプライ(貨幣供給)を行うことにある。

 通常マネーサプライは金利政策で実行されるが、金利政策だけでは手の施しようがなくなった場合、非常の措置として「量的緩和」が実施される。

 米FRBも、リーマンショック直後から大規模な量的緩和政策(QE)を実行していた。

 だが上記にも述べたように、その量的緩和さえ行き詰まりを見せているのが、今日の日銀と日本経済の実情である。

 現在の日本のように、金利政策も量的緩和も有効性を失ってしまった場合には、「第三の手段」として「全国民への一律直接給付」を実施する以外に解決法は存在しない。

「全国民への一律直接給付」こそ、今後の日銀が実行するべきオペレーションであり、これは従来の金利政策や量的緩和に代わる「第三のマネーサプライ」と呼ぶべきであろう。

「そんな事は邪道ではないか」と非難されるかも知れないが、それを言うならば、「量的緩和」そのものが邪道なのであった。

「量的緩和」が公的に容認されるのであれば、「全国民への一律直接給付」も容認されて然るべきである。貨幣供給の観点からすれば、どちらが有効であるかは明らかである。

 全国民への年間150兆円の直接給付によって、「市場に資金を流通させ、民間経済を活性化させる」という量的緩和の所期の目的が、初めて達成されることになる。

 この「第三のマネーサプライ」は、市中への貨幣供給を主任務とする中央銀行の本来の目的にも合致したものである。

 簡単に言うと、量的緩和とは「日銀から日本政府に融資をするが取り立てはしない」ことであり、「第三のマネーサプライ」とは、「日銀から国民全員に融資をするが取り立てはしない」ことである。

 つまり中央銀行は「融資」をしても返済を求めない為、事実上の「無償譲渡」となるのである。

 この場合、「中央銀行から国民への融資は禁じられているのではないか?」と反論されるだろうが、それを言うならば、中央銀行から政府への融資も法律で禁じられており、本来は出来ないはずである。

 しかしながら「量的緩和」の名目で、中央銀行から政府への事実上の融資が認められている以上、中央銀行から国民への融資も認められて当然であろう。両者に違いは無いはずである。

 すでに述べたように、「第三のマネーサプライ」によるベーシックインカムを実施した場合でも、日銀の負担はこれまでと変わらない。

 また、国債にも税収にも頼らないが故に、国家財政の負担はゼロである。

「毎月10万円」の給付を得られたなら、低所得層は食料をはじめとする生活必需品を購入し、高所得層は贅沢品を購入する足しにするだろう。当然、何に使っても自由である。

 年間に150兆円規模で国民全員に現金が供給され、その大半が消費に回されるなら、日本のGDPは大幅にアップすることになる。

 かくして日本は、実体経済において本物の再生を遂げる。

 国債にも税収にも依拠しないベーシックインカムは、決して「バラマキ政策」ではない。

「第三のマネーサプライ」によるベーシックインカムは、緊縮財政と両立し得る。

 これは「小さな政府」のベーシックインカムである。

 またこれにより、国家財政再建が本格的に現実味を帯びてくる。

 ベーシックインカムが実現すれば、数多くの利権絡みの歳出については、原則として全て廃止するか、大幅に削減しても全く差支えがない。

 なぜなら、ベーシックインカムというセーフティネットが存在する以上、かりに利権が廃止されても路頭に迷う人がいなくなるからである。

 最終的には、個々人の生活を救済すれば良いのであって、国家予算絡みの利権構造は、ことごとく解体しても問題は無いのである。上記の「政党交付金」などは、直ちに廃止しなければならない。

 以上のように、「第三のマネーサプライ」によるベーシックインカムによって、国内の貧困問題は解決し、経済成長も実現され、さらに国家財政再建も可能となる。

「小さな政府」は、国民や民間企業に対して負担を要求することなく、ベーシックインカムを実行する事が出来る。

 一方、岸田内閣のような無能な政府は、自らは何の努力もせず、悪びれる様子もなく、民間企業に対して「賃上げ」を繰り返し要求し続けているだけである。しかもその事が、自由主義経済のルールを破っているという事すら分かっていないであろう。

 国民生活を守る事も出来ない無能な政府など、国民にとって不要なのである。















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