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21世紀の「新しい封建制」とは何か

「内なる権威主義」との闘いを

[2024.2.1]



黒死病(ペスト)の大流行は、中世ヨーロッパを荒廃させた。
ブリューゲル 『死の勝利』


パンデミックがもたらした世界変革


 近年、世界が急速に変化しつつある、と感じている人は少なくないであろう。

 それらの根本原因は、パンデミックの影響と考えられる。

 これまで人類の歴史においては、パンデミックを契機に、社会の大転換がもたらされてきた。

 今回のコロナ・パンデミックは、先進国の国内に「勝ち組」と「負け組」を生み出しただけではなく、世界における富裕国と貧困国との格差をさらに拡大させた。

 今回のパンデミックで壊滅的打撃を受けたのが最貧困国家である。

 現在進行中のウクライナ戦争や、拡大の一途を辿る中東紛争等については、コロナ・パンデミックによって窮乏化した国々が活路を求めて、あるいは半ば自暴自棄的になって、戦闘に突入しているという側面を見落としてはならない。

 歴史的に見ても、パンデミックを契機として人々が格段に過激化し、狂暴化する傾向にあった。

 かつてヨーロッパで黒死病(ペスト)が大流行した時期には、多くの人々が「終末」の世界に生きていると信じ、黙示録的な空気が漂っていた。同時期に30年戦争(1618年~1648年)が起き、中世的秩序が崩壊し、時代は近代へと移行した。

 また日本では、ペリーの黒船来航直後からコレラが全国的に大流行した。それと同時に発生した安政大地震などとも相俟って、終末論的風潮が蔓延し、それまで物静かだった日本人が全国各地で同時多発的に過激化した。結果として200年以上続いた幕藩体制は崩壊した。

 さらに第一次大戦中にスペイン風邪がヨーロッパ中で大流行した時期には、ロシア革命やドイツ革命が勃発し、さらにそれらの反動としてイタリアにファシスト政権が成立するなど、ヨーロッパ大陸は狂騒と混乱が続いた。日本でも米騒動が全国に波及した。

 今回のコロナ・パンデミックも例外ではなく、今後ますます世界的規模で戦争や革命が勃発するものと予測される。

 パンデミックの影響は、ボディ・ブローのように、徐々にジワジワと姿を現わすであろう。

 そしてその行き着く先は、「新たな封建制」とも言うべき世界秩序である。



民主主義の衰退と権威主義の台頭


 コロナ・パンデミックに伴って、全世界で民主主義が衰退し、権威主義が台頭しつつある。

 難民が大量に流入しているヨーロッパにおいては、民主主義への信頼が低下し、権威主義を志向する人々が増えている。

 格差が拡大し、社会的階層化が進んだ結果、中道派の政党や政治家の存在意義は失われた。

 2022年6月にフランス国民議会の選挙でエマニュエル・マクロン率いる中道右派連合が絶対多数を失い、極左・極右がともに多数を占めた。

 米国の二大政党制では、両極分化が顕著である。民主党は左傾化の度合を強め、共和党はより一層右傾化してゆく。

 こうした現象は、ナチス党が政権を掌握する直前のドイツの情勢に酷似している。

 ワイマール体制下、1930年から32年にかけてのドイツでは、中道路線の社会民主党が国民の信頼を失い、ナチス党と共産党とが躍進を遂げていた。

  このように有権者が二極化し、民主的議論の素地が失われると、社会は極めて危険な状態になる。

 冷戦終結直後には、全世界が自由民主主義と市場資本主義に向けて進歩を続けていくように思われていたが、リーマンショックに象徴されるグローバリゼーションの破綻を経て、今や中国の習近平、ロシアのプーチン、トルコのエルドアンらをはじめとした新たな専制君主達の支配する世界が実現する可能性が強くなってきた。

 彼等が理想とする指導者像とは、中国の皇帝、ロシアのツァーリ(皇帝)、オスマン帝国のスルタン(専制君主)である。

 専制体制は、国家の偉大さと優位性を誇る意識と密接に結び付いている。

 中国は2001年のWTO加盟の際には、欧米の民主主義国家に近い体制に移行するものと世界中から期待されていた。

 だが実際には、中国は経済大国へと躍進したにも関わらず、個人の政治的権利や財産権や人権といった自由社会の基本的要素を認めることはなく、テクノロジーによって社会統制を強化させた専制主義国家として発展した。

 今や北京政府は、中華文明が大昔に何世紀にもわたって占めていた世界帝国の座を奪還し、これからの世界の覇権を握ろうとしている。

 目下のところ北京政府は、アジア周辺地域で自国の力を誇示しつつ、台湾の征服準備を進めている。

 一方ロシアは、冷戦の終結により民主国家として発展するという楽観的予測も当時はあったが、スターリン崇拝者のプーチン政権下で個人独裁の傾向が強まり、過去の暗黒時代へと回帰しつつある。

 プーチンは国内統制を強める一方で、かつてのツァーリやスターリンの領土征服を再現して「帝国」の版図を拡大しようとしている。

 また帝政ロシア時代と同様、ロシア正教会はプーチンの専制支配と民族主義的侵略を祝福している。

 プーチンは西側諸国の力を侮り、ウクライナを武力で服属させようと試みる一方、かつてロシアが支配していた中央アジアなどの周辺諸国をも視野に入れている。

 こうした中露の動きは、既存の世界秩序を根本から否定する行為であり、小国の主権を守る国際法重視の世界から、「力こそ正義」の世界へと歴史を逆行させるものである。

 ロシアも中国も、自分達の思い描いたとおりに世界を作り変えようとしている。

 特に中国は、自国の社会形態が未来世界全体の形であると確信している。

 こうした専制体制が世界において支配力と影響力を強めるならば、やがてそのモデルが世界の規範となり、現行の資本主義や民主主義に取って代わる可能性がある。

 その一方で、民主的な諸国家における階級間の格差はますます広がり、民主主義が信頼を失い、権威主義が台頭しつつある。



都市の衰退と近代の終焉


 2019年から始まったコロナ・パンデミックは、寡頭支配を続けるエリートとその他大勢の民衆との格差を拡大させた。

 これは世界的規模で生じた現象である。

 最大の被害者は、どこの国でも中流階級から下の階層の人々であった。

 パンデミックの発生から僅か1年後、日本国内だけでも中小企業の閉鎖・廃業・解散の数は5万件を超えた。

 また米国内では数十万社が閉鎖に追い込まれ、中小企業の3分の2は苦境に立たされている。

 これら破綻件数の背後には、その何十倍もの失業者達がおり、さらにその何倍もの扶養家族がいる。

 パンデミックによる被害者総数は膨大な数に上ることになる。

 とりわけ貧困層や労働者階級の子供達は、学習機会を奪われ、社会的孤立に苦しんだ。

 一方、大卒でホワイトカラー職にあるリモート・ワークが可能な人達は、大した影響は受けなかった。

 日本国内の報道においても、大企業のリモート・ワークについて「明るく」報じられる事が多かった。

 それに対して、破綻した企業やその家族達の悲惨な実態については、それほど報道される事は無かった。

 おかげで我が国では、本来なら暴動が発生してもおかしくない事態を乗り切ったと言える(欧米諸国では各都市部で暴動が発生していた)。

 米国内の格差拡大は日本の比ではない。

 米国では、アップル、グーグル、アマゾン、マイクロソフト、フェイスブック(現メタ)などの超優良企業は、コロナ禍においても未曽有の利益を上げ、2020年7月末までに評価額の合計を2兆5千億ドル以上も上乗せした。

 これら超優良企業はいずれもIT企業であり、コロナ禍で外出しなくなった人々が、ネットをこれまで以上に利用するようになった為に得られた利益である。

 その一方で、中南米諸国から米国内に流入する大量の移民は際限がなく、ニューヨークの路上には行き場を失った移民達の群れが溢れ返り、大きな社会問題となっている。

 世界各地の不安定状況は憂慮すべきレベルにまで達している。

 コロナ・パンデミックとそれに伴う規制やオンラインでのリモート・ワークへの移行は、世界中で大都市の衰退を急加速させた。

 パンデミックの時期、世界的に都市部において殺人件数が急増した。

 ロンドン、パリ、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコなど世界の多くの大都市が、パンデミックを契機にさらに危険な場所になっている。

 しかも、都市部で増加する暴力や犯罪行為に対して、市当局に本気で対処する意思が見られない為、大都市からの人口流出が加速している。

 2010年から2020年にかけて、米国では都市部の中心の人口は270万人減少した。その一方で、大都市圏郊外や農村部の人口は200万人増加したという。

 我が国においても、コロナ禍に伴うリモート・ワークの影響で、大都市から去って地方の小都市や田舎に生活と仕事の拠点を見出す人々が増加している。

 近代以降、都市は経済発展の中心であり、社会的地位の上方移動(社会的上昇)を生み出す主要な拠点であった。

 しかしながら、近代社会を形成してきた都市が、今や衰退し、人口流出が発生している。

 これは先進国全体に共通している現象である。

 ローマ帝国末期にも、都市の衰退と都市からの人口流出という現象が生じ、帝国崩壊後は中世の封建制社会へと移行した。

 そして現在、世界的に生じている都市からの人口流出が、「新たな封建制社会」をもたらすと予測する人々は多い。



格差が固定化する21世紀の封建制


 2013年にトマ・ピケティが『21世紀の資本』を発表して以降、社会格差の問題をめぐる議論が活発に行われてきた。

 だが、それから10年経った今日、事態はますます悪化の一途を辿っている。

 冷戦後、社会主義の崩壊は資本主義の勝利と捉えられ、新自由主義全盛の時代を迎えた。

 そして冷戦終結とソ連崩壊から30年余を経た現在、新自由主義によってもたらされた矛盾に世界は翻弄されている。

 多くの場合、体制は外部の力によって崩壊するのではなく、体制そのものから生み出された矛盾によって内部から崩壊する。

 現在の世界が直面しているのは、都市に基盤を置く近代社会の終焉と、「新たなる封建制社会」の成立である。

 今や人類は、物質的な「進歩」を終え、精神性を求める「安定」の道を歩み始めているとも考えられる。

 そもそも歴史が一方向に「直線」的に進歩し続けるという歴史観は、近代社会特有の産物に他ならない。その典型が、ヘーゲルやマルクスに見られる発展史観であった。

 しかしながら、古代から普遍的な歴史観は、「円環」構造を成している。

 例えば古代ギリシャの歴史家ポリュビオスは、著書『歴史』において、政体を6種類に分類し、それぞれ順番通りに繰り返すという「政体循環論」を唱えた。

「政体循環論」は、「王制」→「専制」→「貴族制」→「寡頭制」→「民主制」→「衆愚制」→「王制」の無限ループで政体が循環すると説く。

 この循環はアナキュクロシス(anakyklosis)と呼ばれる。

 ポリュビオスに限らず、こうした円環構造の歴史観が、古代社会や中世社会においては広く受け入れられていた。

 最近では、米国の未来学者ジョエル・コトキン氏が『新しい封建制がやってくる』という著書において、階級格差が固定化して停滞する現代社会の未来を予測している。

 同書では、階層化(階級分化)が進み停滞が続く社会の傾向について分析が試みられている。

 コトキン氏は、歴史は退行して「新しい封建制」を現出するまでに逆戻りしたと論じている。

 コトキン氏が住んでいるカリフォルニア州は、現在の米国において貧富の格差が最も激しい地域の一つであり、「新しい封建制」が到来しつつあるという。

 氏によれば、「新しい封建制」の最先端は「シリコンバレー」とされる。

 約40年前の1980年代には、シリコンバレーは格差の無い平等主義の見本であり、中流や下層階級の人々でも、努力と才能次第で持ち家を所有出来る「カリフォルニア・ドリーム」を実現していた地であった。

 しかし、シリコンバレーがソフトウェア産業などのハイテク分野で世界的に優位に立つようになると、階級間格差が拡大し、今ではシリコンバレーの住民の3割近くが生活保護受給者であるという。

 過去30年間で、シリコンバレーにおける雇用の中心が製造業からソフトウェア産業へと移行したことが原因の一つである。

 ソフトウェア産業は製造業ほど多くの労働者を必要としない上に、高度な情報系技能が求められる為、一般市民の雇用は増えないのである。

 巨大なハイテク企業は、ごく少数の億万長者を生み出しただけで、そこで働く人々の多くは、低賃金の請負契約でサービス業に従事する労働者や非正規労働者である。

 そして非正規労働者の多くは、トレーラーハウスで「野営」生活を送るホームレスである。

 シリコンバレーのホームレス「野営」地の規模は、全米最大級だという。

 しかもこのシリコンバレーにおける階級間格差は固定化し、社会的流動性は著しく低下している。

 このような状態は、資本主義社会というよりは、むしろ封建制社会の姿そのものである、とコトキン氏は分析している。

 階級がほぼ固定化されている現実は、今日の状況が封建時代に最も似たところである。

 さらに、こうしたシリコンバレーの実態が、来たるべき「未来世界の縮図」であるとコトキン氏は言う。

 現在、日本においても政府の肝煎りで「デジタル化」が推進されているが、それは「シリコンバレーの悲劇」を日本全国にもたらす試みでもあり、「新しい封建制」への道でもあることを知らなければならない。



日本社会の封建制への回帰現象


 現在、世界全体で「新しい封建制」へと向かう流れが形成されており、後戻りすることは最早不可能と見られる。

 それは、米国や日本のみならず、英国、豪州、カナダ、欧州大陸の大部分、さらには急速に発展している東アジアの国々を含む世界的な現象である。

「進歩」や「発展」や「上昇」を一方向的に追い求め続ける近代パラダイムから脱却しない限り、人類社会に未来が無いことを、すでにこの地球に生きる人々は感じ始めている。

「限りなき進歩」や「無限の発展」などは、近代特有の幻想に過ぎなかった。

 人々の願望や幻想がどうあれ、時代の潮流はそれらとは無関係に無慈悲に流れてゆく。

 コロナ・パンデミックにより、下層階級が犠牲を払いますます貧しくなる一方、中世の貴族や聖職者に相当する現代社会の上流階級はほとんど痛痒を感じないという意味でも、すでに状況は中世的世界を再現している。

 かつての製造業を主体とする近代社会の場合は、下層階級が苦しい時期は上流階級も苦しく、上流階級が豊かな時期は下層階級もそれなりに豊かな時代であった。

 近代産業社会においては、たとえ上下間の経済格差はあったとしても、上下ともに喜びや苦しみを共有し得たという意味において、共通の「国民意識」を持つことが可能であり、「国民国家」としての実体があったと言える。

 そこでは、「国家の発展」と「自分の発展」とがイコールであり、「国家の危機」は即ち「自分の危機」であるという意識を、万人が持ち得た稀有な時代であった。

 一方、中世社会の場合、人々の意識において「国家」は存在せず、実体として存在したのは「家」だけである。

 製造業主体の社会の衰退に伴って、現在先進国において進行している事態は、「国民国家の分断」であり、さらには「国家の消失」と中世的「家」の復活である。

 よく分かる実例として、日本において政治家はほぼ世襲制になりつつある。

 現在の日本の世襲議員の割合は、国会議員全体で3人に1人である。内閣の閣僚においてはさらに顕著で、現内閣の場合、総理大臣を筆頭に8割の閣僚が世襲議員である。

 現行の衆議院小選挙区制の選挙制度が続く限り、この傾向はさらに強くなる。

 とりわけ小選挙区の地盤は、代議士としての身分が半永久的に保証される絶対的な「既得権益」であるため、あたかも「自分の私有財産」であるかのように錯覚されている事情が背景にある。

 そのため、もともと世襲ではない議員であっても、「自分の代議士としての後継者は息子か親族に」と考えるようになる。

 現行制度のままでは、いずれ国会議員のほとんどが世襲議員になる事は確実である。

 かつて徳川幕藩体制では、三百諸侯が大名として各藩を預かっていた。

 そして現在の衆議院小選挙区制の三百議席は、封建体制における世襲の三百諸侯の復活に他ならない。

 全国の各地域において、「生まれながらの殿様」が、あらかじめ決まっており、地元の人々もそれを受け入れているのが現在の日本社会の現状である。

 戦後の昭和時代の頃には、動機の善し悪しは別として、人々は候補者の「人物」や「政策」を選んで投票していた。

 しかしながら、近年の投票行動の多くは、「元議員の息子さんならば安心だから投票する」といった具合に、候補者の「人物」や「政策」ではなく、候補者の「家」に投票するようになった。

 これは、人々の「内なる権威主義」に他ならない。

 今や選挙は、「民主主義」と呼べるものではなく、封建制の追認儀式に過ぎなくなった。

 人々の投票の動機は、「この国をどうするか」ではなく、「地元の殿様のお家なら安心だ」という判断基準である。

 その根底にあるのは、「他者に権限や決定を委ねた方が楽だ」という意識である。

 このように、一般の人々の意識も、近代から中世へと回帰しつつある。

 少なくともこの国が近代以降の「国民国家」でなくなった事は確かである。



「聖職者」としての「有識者」の存在


 コトキン氏の『新しい封建制がやってくる』では、中世ヨーロッパにおける最高権威であるカトリック教会の「聖職者」に相当する存在が、現在の「有識者」であると述べられている。

 支配体制を維持するには、支配を正当化する論理を提供する「正当性付与者」が必要とされる。

 中世ヨーロッパの封建制においては、聖職者がその役割を果たしていた。

 しかし近代に入ると、教会の権威は衰退し、聖職者の「正当性付与者」としての役割は低下し、それに代わって、大学教授、科学者、公共知識人などの所謂「有識者」が、支配体制の「正当性付与者」の役割を担うようになった。

 コトキン氏は、この「有識者」のカテゴリーをより広く捉えており、上記の職業に加えて、教師、コンサルタント、弁護士、政府官僚、医療従事者、ジャーナリスト、芸術家、俳優など、社会的に影響力のある職種をも含めている。

 確かに、テレビに出演する「有識者」のコメンテーターは、ほぼ全員が「体制側のスポークスマン」として機能している。

 逆に、体制側の意図に反した意見を述べたコメンテーターは、「不適切」として切り捨てられる構造になっている。

 こうした事情は、米国も日本も共通のようである。

 民主主義社会においては、「民主主義では社会がうまく運営出来ない」という思想が、たびたび出現する。

 現代社会は複雑であり、社会の運営には高度な専門的知識を要する。そのため、一般市民の政治参加や民主主義ではうまくいかない。むしろ高度な知識を有するエリートすなわち「有識者」による支配の方がうまくいくはずだ、という考え方である。

 こうした思想は、決して支配階級だけのものではなく、一般市民の中にも「エリート信仰」の習慣が根強く存在する。

 例えば、「みんなが尊敬する某博士の説だから間違いはない」あるいは「東大卒の優秀な官僚が決めた事だから大丈夫だ」等々の心情である。

「エリート信仰」もまた「内なる権威主義」である。

 その根底にあるのは、「他者に判断を委ねた方が楽だ」という意識である。

「有識者」達は、そうした人々の「内なる権威主義」をより強化するように誘導し、国民を洗脳してゆく。

 現代の「有識者」の実際の役割とは、現支配体制を正当化し、国民支配の方法に「お墨付き」を与える事である。

 例えば最近では、「日経平均株価がバブル期以来の高値だから、日本経済は確実に上向いており、景気は好調である」といった言説である。

 しかしながら、実際に日本株を買っているのは、日本国民でもなければ日本企業でもなく、海外の外資系ファンド、所謂「ハゲタカ・ファンド」である。

 一昨年来の円安の影響で、ドル換算すれば日本株が「激安」状態になっているために、ハゲタカ・ファンドの資金が大量に流入し、日経平均株価を押し上げているだけである。

 もし今後、米国のインフレが収束して米FRBが利下げに転換すれば、ドル円相場は一転して円高の流れになり、外資系ファンドは一斉に利益確定の日本株売り決済に転じるため、日経平均株価は急落することになる。

 要するに、現在の日経平均株価の高値の原因は、決して日本経済の好景気の反映ではなく、日本株が外資系ファンドの玩具にされているだけの状態であり、日本経済は依然として低迷を続けているのであるが、こうした事実は決してマスメディアでは報道されない。

 また、今や政府は労働組合の代弁者のように、国内企業に「賃上げ」を呼びかけているが、コストプッシュ型インフレの状態で賃上げをするならば、企業財務がますます圧迫されるだけである。

 景気が良いわけでもないのに無理な賃上げを強行するならば、財務体力の無い中小企業は破綻し、大企業ではリストラの嵐となり、失業者が全国的に溢れ返る事態が予想されるが、こうした事もメディアで流される事は決して無い。

「有識者」はひたすら政府が喜ぶようなメッセージしか国民に伝えない。

 彼等は常に「体制」の利益の為にのみ発言する。そうしなければ、政府の顔色ばかりを窺っている放送局から降板させられる事をよく知っているからである。

 地上波放送局は、内閣府から電波帯の使用許可を受けている為、政府の意向に反する内容は放送出来ないのである。

 そのため「有識者」は、決して「大多数の国民の為」に発言する事は無いし、体制にとって都合の悪い問題を提起することも無い。

 そして政治家達は、こうした「有識者」の意見に基づいて政策を立案する。

 結果として、国家と国民にとって真に必要な政策課題は、政治的プログラムから必ず外されることになる。

 こうした「百害あって一利なし」の「有識者」を存在させ続けているのは、紛れもなく私達一般市民の中に根強く存在する「エリート信仰」や「内なる権威主義」に他ならない。



「内なる権威主義」との闘いを



 長期的観点から見れば、都市からの人口流出や封建制への回帰は、決して悪い事ではない。

 近代社会において、何世紀にもわたり、都市が経済発展と文化的創造性の原動力であったことは事実である。

 だが、同時に都市は犯罪や貧困を生む温床にもなってきた。

 人々に密集した生活を強いるよりも、むしろ地方において分散化された社会を発展させた方が、健康的で真の豊かさを享受し得るであろう。

 人々が自分の好きな場所に住んで働くことが出来れば、より強い自立心と主体性を持ち、地域社会への貢献を高めるようになる。

 また社交的なコミュニティを形成しやすくなり、本当の意味での民主主義の形成にも繋がるはずである。

 大都市からの人口流出に伴う21世紀の「新たな封建制」が、かつてのような世襲貴族による農民支配につながることは考えにくい。

 かつての封建制社会とは異なり、情報化社会の現代においては、人々は権威者や権力者に疑問を抱くようになっている。

 情報化社会の市民は、権力者に従順に服従する農奴ではなく、健全な懐疑心と主体的な意志を持つ人々である。

 情報化とAI化が進行し、官僚の仕事の多くがAIに取って代わられるようになれば、政治の在り方も変わるはずである。

 AI時代の政治は、政策の責任を、選挙で選ばれてもいない官僚や「有識者」ではなく、一般市民から正統に選出された人物に担わせる事が可能となる。

 また、高度な通信会議システムにより、政策を討議する場に市民を参加させる事などが実現してゆく流れになるであろう。

 来たるべき新たな封建制社会において、市民主体の民主主義を実現するためには、権威主義から自由と民主主義を守る覚悟が必要である。

 その際には、「外なる権威主義」勢力との闘いだけでなく、私達一人ひとりが、自らの「内なる権威主義」と闘うことが何よりも必要である。

「内なる権威主義」とは、「他者に判断や決定や権限を委ねた方が楽だ」という意識である。

 各々が、「内なる権威主義」を峻拒し、自ら判断し、自ら決定し、自ら権限を行使する、という意識と姿勢を堅持することこそが、新たな社会の規範でなければならない。













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