Top Page







《外部リンク

⇒ 皇祖皇太神宮

⇒ 一般財団法人 人権財団




宇宙史における「ヴェーダ」の位置付け

「エイリアン・インタビュー」を裏付ける思想 その2

[2023.8.15]




古代サンスクリット語で記録された「ヴェーダ」の一部

ドメイン勢力が人類に与えた「ヴェーダ」


 人類最古の物語は「ヴェーダ」と言われる。

 「ヴェーダ」は、ヒマラヤ地域において1万年以上前から口伝で継承され、約3千年前に文字で記録されるようになった。

「エイリアン・インタビュー」においては、ドメイン勢力が人類に「ヴェーダ」をもたらしたという「史実」が、再三にわたって述べられている。

 以下は、「エイリアン・インタビュー」からの引用である。

「ドメインの勢力がヴェーダの讃美歌を紀元前8200年頃にヒマラヤ地域にもたらした時、いくつかの人間の社会はもう既に存在していた。アーリア人たちがインドを侵略し、征服し、ヴェーダの讃美歌集をその地域に持ち込んだ。ヴェーダは彼らによって学ばれ、記憶され、7000年の間口頭で継承され、その後文書化された。その期間の間、ドメイン遠征軍の士官の一人が地上で「ヴィシュヌ」として転生した。彼はリグ・ヴェーダの中で何度も記載されている。ヒンズー教の者たちは彼を未だに神と見なしている」

「最終的にヴェーダの讃美歌集は、ほとんど全ての東洋の宗教の源になり、仏陀、老子、ゾロアスターと他の哲学者たちに共通する思想の哲学的な源であった。これらの哲学の啓蒙的な影響がやがて「旧帝国」の宗教の残忍な偶像崇拝に取って代わり、優しさと思いやりの真の起源であった」

「紀元前8212年-ヴェーダ、またはヴェーダ讃歌集は地球の様々な社会に持ち込まれた一式の宗教的な讃美歌集である。それらは口承され、記憶され、世代から世代へ受け継がれる。「暁の讃歌」には、ある空間の中でエネルギーと物質が創造され、成長し、維持され、崩壊し、死ぬ、または破壊される、という「物理的な宇宙の周期」と呼ばれる思想が含まれている。これらのサイクルが時間を生み出す。この同じ賛歌集は、「進化論」を説明している。ここには多量なスピリチュアルな真実を含む、膨大な量の一連の知識がある。残念ながら、それは人間たちによって誤った評価をされ、神官たちによっての嘘と事実の反転を通して改ざんされている。これらは、誰かがこの叡智を使ってこの牢獄惑星から脱出する道を発見するのを防ぐための仕掛け地雷である」

「紀元前850年-盲目のギリシャの詩人ホメロスが「神々」について書いた物語は、ヴェーダの文書、シュメールの文書、バビロニアとエジプトの神話という、それ以前からあった情報源から借りて部分的に変更したものである。彼の詩と古代の世界の他の多くの「神話」は、「旧帝国」の記憶喪失オペレーションを避け、生物的な肉体なしに行動することができたIS-BEたちの地球での英雄的行為のとても正確な記述である」

「紀元前700年-ヴェーダ賛歌集が初めてギリシャ語に翻訳された。これは西洋文明における文化的な革命の始まりであり、原始的で残忍な部族文化を、より道理にかなった行動に基づいた民主主義的な共和制に変貌させた」

「貴方は古代のヴェーダ賛歌集が『進化』について述べていることを見つけることができる。ヴェーダの文章は、ドメインの中のあらゆる星系から集められた民話、または一般的な知恵と迷信のようなものである。これらは童謡集のように詩節になるように編集された。これらの詩節には、真実についての記述がある度に、それと同数の一部だけの真実、真実を反転させたものと非現実的な想像が含まれており、それらは条件や区別なしに混ぜあわされている。進化論は、全ての生命体に命を吹き込み、動機を与えるエネルギーの源は存在しないと思い込んでいる」

「これは、ヴェーダ賛歌集がドメイン遠征軍によって8200年前に地球に持ち込まれたという事実によってさらに複雑になっている。彼らがヒマラヤ山脈に本拠地を置いていた時、地元の人間たちの一部がそれらの詩節を教えられ、記憶した。しかし、これはドメインの基地の隊員にとって公式に認定された活動ではなかったと私は注釈するべきである。とはいえ、当時彼らにとってそれは無害な気分転換のように思えたということを私は確信している。

 それらの詩節は山脈の麓で次の何千年もの間、口頭によって世代から世代へと受け継がれていき、最終的にはインド中に広まった。ドメインの中では誰一人としてヴェーダ賛歌集の題材が事実に基づいた題材であると信じていない、貴方が子供を育てるのに「グリム童話集」を手引書に使わないのと同じように。しかし、IS-BEたちが全員記憶消去されている惑星では、これらの物語やファンタジーがどのようにして本気に受け止められてしまったのかを理解することができる。

 残念なことにヴェーダの詩節を学んだ人間たちは、それらは「神々」から来たと言って他の人たちにそれらを伝えた。最終的にはそれらの詩節の内容は逐語的に「真実」であると取り入れられた。ヴェーダの婉曲的で比喩的な内容は、独断的な事実として受け入れられ、実践された。詩節の哲学は無視され、詩節は地球上のほとんど全ての宗教的実践の起源になった。ヒンズー教は特にそうである」

 以上が、「エイリアン・インタビュー」からの引用である。



「神々」として讃えられていたドメインのメンバー


 因みに「ヴェーダ」とは、古代サンスクリット語で「知識」を意味する。ギリシャ語の「グノーシス」と同義である。

 約1万年前にドメイン勢力によってもたらされた「ヴェーダ」は、ヒマラヤ地域の人々によって学ばれ、記憶され、約7000年間にわたり口頭で継承され、後に文書化された。

 さらに「ヴェーダ」からウパニシャッド哲学やバラモン教が生まれ、後にその系譜からヒンズー教が現在に至るまでインドにおいて信仰されている。

 またバラモン教の異端派であった仏教や、古代ペルシアで始まったゾロアスター教の思想などにも「ヴェーダ」が大きく影響している。

「ヴェーダ」の中で最も古く著名なのが「リグ・ヴェーダ」である。

「リグ・ヴェーダ」は、口述で構成され、継承された定型的な語法によって演奏される賛美詩集である。紀元前1000年頃に文章化されたと考えられており、伝承地域はインダス川流域に集中していた。

 リグ・ヴェーダ時代の人々は、インドラ、ヴィシュヌ、ルドラ(後にシヴァと呼ばれる)など数多くの神々に讃歌を詠んでいたが、これらの「神々」の実体は、ドメイン勢力のメンバーであったと考えられる。

 多神教のインドでは、日本の八百万の神々のように数多くの神が崇敬されているが、現在のヒンドゥー教ではシヴァとヴィシュヌが二大神とされる。

 長いインドの歴史の中でも最も古い文学「リグ・ヴェーダ」にも、このシヴァ神とヴィシュヌ神への讃歌が詠まれている。

 因みにシヴァは、リグ・ヴェーダ時代には「ルドラ」と呼ばれていた。ルドラ(=シヴァ)もヴィシュヌもドメイン勢力の一員と考えられる。

 当時の地球の人々が、ドメインのメンバーをどれほど崇拝していたかが、「リグ・ヴェーダ」から読み取れる。

 例えば、ルドラは次のように讃えられている。




 マルト群神の父よ、貴方の恵みが我等に近づきますように。

 我等が陽の光を見ることを遮ることがありませんように。

 勇者(ルドラ)は我等の駿馬に寛大でありますように。ルドラよ、我等の子孫が増えますように。

 ルドラよ、貴方がくださった最もよく効く薬で、私は百の冬をも越えたいのです。

 恨みや憎しみを我等から遠くに追い払いください、病や苦難をも、あらゆる方角へ。

 ルドラよ、貴方は生まれた者たちのうちで最も栄誉ある者、雷鳴で身を固めた、力ある者たちのうちで最も力ある者。

 我等を苦難を越えて安寧へと運んでください。災いの来襲を追い払いください。

 ルドラよ、強大な神よ、祭祀で、誤った讃辞によって、あるいは他の神との合同の祈願によって、我等が貴方の怒りに触れることがありませんように。

 力を強める薬で我等の勇者たち(男たち)を駆り立ててください。

 私は、貴方が全ての医者のうちで最も優れ、名が高いとお聞きしております。

「讃歌によって、ルドラの機嫌をとろう」と、供物や祈願によって崇められる者。

 黄褐色で、頬美しく、寛大で、呼びかけやすい神が、我等を邪念に屈服させることがありませんように。

 マルト群神が取り巻く強大なる者が、救いを願う私に、最も鼓舞させる食べ物で、元気をお与えくださいました。

 灼けるような太陽の光のなかで日陰を見つける者のごとく、ルドラの恵みで、私は傷つくことがありませんように。

 ルドラよ、健康を与え、心地よさをもたらす、貴方の慈悲深い手はどこにあるのですか?

 神々がつかわした苦悩を取り除くその手は?

 強き者よ、哀れみを私にお与えください。

 強き、偉大な、黄褐色の、肌の美しい彼に、私は大いなる讃歌を詠います。

 我等は輝く神を崇拝いたします。我等は賛美します、壮麗なる名、ルドラを。

 しっかりした手足、多くの姿をもつ、強き、黄褐色の者は、輝く黄金の装飾で身を飾る。

 尊き者、貴方は、弓矢をになう。尊き者、色とりどりで、栄光の、貴方の首飾り。

 尊き者、貴方は、ここで魔を切り刻む。ルドラよ、貴方より強大なる者はない。

 讃えよ、彼を、車に乗る者、若き者、名高き者、森の恐ろしい獣を殺戮するごとく猛し者を。

 ルドラよ、讃えたならば、詠い手に慈悲深くおありください。貴方の武器で我等と異なる者を打ち倒しください。

 ルドラよ、私は、貴方が近づくと、貴方に頭を下げましょう、ほめてくださる父を前にした少年のように。

 私は貴方を讃えます、惜しみなく与える者を、勇者たちの主よ。讃えられたとき、貴方は、我等に薬をお与えください。

 マルト群神よ、清浄なる薬、それは、最も効能があり、最も健康によいのです。

 ルドラよ、我等の祖先マヌが選んだその薬を、私は望みます、我等の利益と富のために。

 ルドラが放った矢は、我等のそばで、その向きを変えますように。荒ぶる者の激しい怒りは我等を避けていきますように。

 惜しみない神よ、貴方の強い弓を我等の王子からそらせてください。貴方は、我等の子孫に慈悲深くおありください。

 黄褐色の牡牛よ、怒ることなく、神よ、我等を殺すことなく、貴方の本性をお示しください。

 ルドラよ、ここに、我等の祈願に耳を傾けてください。

 我等は高らかに語りたいのです、集いにおいて、勇者たちとともに。

(リグ・ヴェーダ 2・33 ルドラの詩)




 また、 ルドラ(=シヴァ)と対をなすヴィシュヌは、様々な姿に権化した神として知られる。

 ヴィシュヌは、四本の腕をもち、右手には円盤と棍棒、左手には法螺貝と蓮の花を手にした姿などで、よく描かれている。あるいは霊鳥ガルーダに乗った姿で描かれることもある。

 他にも、海底に沈んだ大地を支えて元に戻したという野猪や、悪魔を殺した人獅子の姿などがあるが、ヴィシュヌは英雄クリシュナとしての伝説が人々に親しまれている。

 横笛を吹くクリシュナの絵は、インドではよく見られる。

 彼等がドメイン勢力の一員であるとすれば、おそらくドールボディを多様に使い分けていたという事であろう。

 またヴィシュヌは、世界に広がる太陽の光照作用を神格化した神と考えられている。

「リグ・ヴェーダ」では、地・空・天を三歩で闊歩した闊歩者としてのヴィシュヌが詠われている。

 ヴィシュヌへの讃歌は次のようなものである。




 私は、ヴィシュヌの大いなる功績を告げよう。

 彼は、地界と空界の領域を測った。

 彼は、高き集会の場(天界)を支えた。

 大きく闊歩して、三歩で歩んだ。

 この大いなる功績のために、ヴィシュヌは讃えられる。

 山を、息を殺して歩き回る、恐ろしい野獣のように。

 彼の大きく広がる三歩のうちに、全ての生き物たちは住み処を得る。

 威力を高めるこの讃歌はヴィシュヌへと届け。大きく闊歩し、山に住まう牡牛(ヴィシュヌ)へ。

 一人で、三歩をもって、この遠く広がる人々の住み処を測った彼へ。

 彼の三つどころは蜜で満ち、尽きることなく、喜びが共ににあるように、

 彼一人で、三つからなる、地界、空界、天界と、全ての生き物たちを、まさに支える。

 私は、神々に帰依する者たちが幸いであるところの彼が愛する住まいに至りたい。

 泉があり、大きく闊歩する者の縁者がおり、ヴィシュヌの高き歩みには蜂蜜酒の泉がある。

 我等は、角が多く敏捷な牛たちのいるところの、貴方がた(インドラとヴィシュヌ)の住まいに喜んで行きましょう。

 強く、我等を照らす、大きく闊歩する牡牛の、崇高なる住まいに。

(リグ・ヴェーダ 1・154 ヴィシュヌの詩)




 因みに最も偉大な神はインドラで、リグ・ヴェーダ讃歌の約4分の1はインドラに捧げられている。

 インドラは後に仏教に取り入れられ、日本では仏法を護る神「帝釈天」として知られている。



輪廻転生を否定していた「ヴェーダ」


「リグ・ヴェーダ」の宗教は、儀式の面からいうと、「火の宗教」である。

 火は、天上において輝くものであると同時に、また個人の身体の内奥にも感じられるものであるとされる。

 また、火は破壊的なものであるが、常に変化をもたらすものでもあり、創造的であると見なされ得る。

 現代的に言えば、火は「創造的破壊によるイノベーション」をもたらす存在ということになる。

 こうした火を崇拝する思想は、後に「拝火教」と呼ばれるゾロアスター教へと受け継がれてゆく。

「リグ・ヴェーダ」で、最初に死者のための道を発見した「死者の王」とされる「ヤマ」とは、閻魔天のことである。「閻魔」は「ヤマ」の漢語訳である。

 ヤマの名は、火の神アグニに捧げられた下記の「葬送の詩」の中にも登場する。




 アグニよ、彼(死者)を焼き尽くすことなかれ、呑み尽くすことなかれ。

 彼の身体も、彼の肌も消し散らすことなかれ。

 ジャータ・ヴェーダス(アグニ)よ、貴方が彼を呑み頃にしたならば、彼を祖霊への道へ送り出し給え。

 ジャータ・ヴェーダスよ、貴方が彼を呑み頃にしたならば、彼を祖霊に引き渡し給え。

 彼を待ち受ける彼の世に到達した時、彼は神々の従者となろう。

 貴方の眼は太陽へと赴く、気息は風へと。

 規範に従って、地に行き給え、天に行き給え。

 もしそれが貴方に定められたものならば、泉に行き給え。

 貴方の手足をもって、植物を貴方の住み処とし給え。

 山羊が貴方の分け前である。熱をもって彼を呑み給え。

 貴方の猛る炎で、増してくる輝きで、彼を燃やし給え。

 ジャータ・ヴェーダスよ、貴方のめでたい姿で、この男を敬虔なる人のところへ連れて行き給え。

 アグニよ、彼を祖霊のもとに送り返し給え、貴方に捧げられ、我等の供物とともに行く彼を。

 ジャータ・ヴェーダスよ、新しい生命をまとって、彼に子孫を増やさせ給え。彼を新たな身体と合一させ給え。

 黒い鳥、蟻、蛇、獣が傷つけたところを、その全てを焼くアグニは、それを清め給え、そして、婆羅門の喉を通る神酒ソーマをも。

 アグニの炎に対して牝牛で覆い給え。脂と髄で包み給え。

 剛胆なる者が、怒って、貴方を襲い、猛る熱で、貴方を包み、呑みそこなうように。

 アグニよ、この盃をこぼすことなかれ、神々や神酒ソーマを飲む者たちが愛する盃を。

 この盃、神々の飲酒に供するこの盃、これで不死の神々は陶酔する。

 私は、肉を喰らうアグニを、遠くに送る。彼は不浄を運びながらヤマの支配する者たちのもとへ発つ。

 しかれど、ここに、他のジャータ・ヴェーダスがいる、神々への供物を運べ、彼は巧みであるのだから。

 私は、貴方の住まいに入る神を、祖霊祭のために選ぶ、肉を喰らうアグニとは別のこの他のジャータ・ヴェーダスを眺めながら。最高の集いにおいて彼に火を点させ給え。

 アグニよ、天則を持続する祖霊を祀るべき彼に、祖霊と神々への供物を告げさせ給え。

 まさに喜んで、我等は貴方を据えよう。まさに喜んで、貴方を燃やし、輝かせよう。

 喜んで、切望する祖霊を近くに連れて来給え、供物を食してもらうがために。

 アグニよ、鎮まり給え、貴方が焦がし、焼いたところをよみがえらせ給え。

 ここに、水百合を生えさせ給え、草も、やわらかく、そして葉を茂らせて。 

 清涼さよ、貴方は植物を清涼にする、新鮮な水よ、ハーブを生き生きとさせる。

 雌蛙とともにこちらへおいでください。ここにおられるアグニを大いなる喜びでみたしてください。

(リグ・ヴェーダ 一〇・一六、葬送の詩)




 このように超古代リグ・ヴェーダの時代の人々は、死者をヤマ(閻魔)の国に送り届けることを、火の神アグニに願っていた。

 当時の人々は、ヤマの国は最高天にある楽園にあって、そこで祖霊たちが幸せに暮らしていると考えていたのである。

 彼らは炎の立ち昇るその先に、死者のあの世での幸福を祈った。

 今では人々が輪廻を強く信じている輪廻思想の国インドであるが、その歴史の源泉リグ・ヴェーダ時代の後半、紀元前八世紀においても、輪廻思想や地獄の観念が存在していなかった事は注目に値する。

 輪廻転生が宇宙の真理に反しているという事実を、リグ・ヴェーダ時代の人々は知っていた可能性がある。

 因みにキリスト教では、カトリックもプロテスタントも、地獄の存在は認めているが、輪廻転生は否定している。



「ヴェーダ」からウパニシャッド哲学へ


 上記のように数多くの神々に讃歌を詠んでいたリグ・ヴェーダ時代の人々は、やがて次第に祈祷句や祭式の規定やその意義の解釈を重視する祭祀主義の宗教を奉じるようになった。

「エイリアン・インタビュー」でエアルが語ったとおり、かくして「ヴェーダ」の真意は歪められていった。

 その一方で、「宇宙の起源」について思いを馳せるようになった人々もいた。

 リグ・ヴェーダ時代の後期に詠まれた宇宙開闢の詩に始まる哲学的思想から、宇宙の起源や人間の本質を究めようとした哲学書ウパニシャッドが生まれた。

「リグ・ヴェーダ」には、「宇宙開闢の詩」と呼ばれる次のような詩がある。

 今から約3000年前に詠まれたこの詩から、人類の哲学的思索が始まった。




 そのとき、無もなかった、有もなかった

 空界も、その上の天もなかった

 何ものかが蔽い始めた、どこに、何ものの庇護の下に

 水はあったのか、測り知れない深さの水が

 そのとき、死もなかった、不死もなかった

 昼夜を分かつ標識(星辰たち)もなく

 彼の唯一物は息なく呼吸していた他には何もなかった

 暗黒が暗黒で蔽われていた始まりのとき

 この一切は見分けようもなく混沌としていた

 一切は存在し空虚で形もなかった

 熱の力により彼の唯一物は生まれた

 初めに意欲が湧き上がり、

 思考の第一の種子となり芽を吹いた

 心の中に熟慮して求めた詩仙らは有の親縁を無の中に見出した

 彼らの張った縄は横に伸ばされた

 何が上で、何が下であったか

 孕ませる力と、孕む力があった

 自存力はここに、衝動力は向こうに

 誰が正しく知っているというのか、

 誰がここに宣言することができるというのか、

 この創造がどこから生じ、どこから来たのかを

 神々さえこの創造の後に現れたのだ

 一体誰が知っているのか、始まりにおいて、この創造がどこから来たのかを

 この創造の初めの源たる彼、彼がこの全てを創り出したのか、それとも創り出していないのか

 最高天でこの世界を監視する眼をもつ者

 彼はこれを知っているのか、いや彼すら知らないのかもしれない

(リグ・ヴェーダ10・129)




 ウパニシャッドの二大雄編と称される「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド」と「ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド」は、紀元前六世紀ごろまでに成立したといわれている。

 ウパニシャッド哲学からバラモン教が生まれ、さらに時代を経て分派として仏教が成立するのであるが、いずれも原点はドメイン勢力によってもたらされた「ヴェーダ」であった。

 ウパニシャッド哲学では、「ブラフマン」は「絶対者」、「アートマン」は「自己」を意味する。

 ブラフマンは、「世界に生気を与えて動かしている聖なる原理」「究極の本源的な原理」を意味する。

 ブラフマンは、現象世界を超越し、空間や時間に限定されない存在である。それは不死なるものであり、恐怖のないものである。

 ブラフマンは絶対者であるが故に、超越者として現象世界を超えていると同時に、現象世界を展開する存在でもある。

 そのため、ブラフマン(=絶対者)には二つの相がある。

 有形と無形、死すべきものと不死、流動と安定、「此処に在るもの」と「彼方に在るもの」、等々である。

「有」と「無」の双方を併せ持つ究極の存在が絶対者であり、仏教では「空」の概念がこの絶対存在に相当する。

「IS-BE」の本質は、この「空」である。

「有」の世界は、死すべきものであり、「此処に在るもの」である。

 この宇宙もまた「此処に在るもの」で「有」のカテゴリーに属するため、流動的な存在であり、いずれ必ず滅する存在である。

 しかし「IS-BE」は、「有」であると同時に「無」でもあり、永遠に不死の存在である。

 ウパニシャッド哲学でいうブラフマンとは「IS-BE」に他ならない。

 そして、アートマン(=自己)の本質は、「IS-BE」そのものである。

 漢語では、ブラフマンは「梵」、アートマンは「我」と表される。

 そして、「絶対者と自己とは同一存在である」という真理を表した言葉が「梵我一如」である。

「梵我一如」ほど端的に「IS-BE」の本質を表現した言葉は他に無い。

 肉体に閉ざされた「自己」の本質は、大宇宙を超越した「絶対者」そのものである。

 地球に連行された時に忘れさせられたこの事実を思い出す事こそが「解脱」であり、人間にとっての最終目的なのである。













(C)宇宙文明フォーラム All Rights Reserved.