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宇宙史や人類史を解明するグノーシス主義

「エイリアン・インタビュー」を裏付ける思想

[2023.7.15]




中世に描かれたグノーシス思想の寓図。この宇宙の「外」に光の世界がある、とする。

「エイリアン・インタビュー」とグノーシス主義


 前回紹介した「エイリアン・インタビュー」の真偽については、様々な意見があるだろう。

 ただし、著者であるマチルダ・オードネル氏は、2008年に「エイリアン・インタビュー」を公開した直後に不可解な「自殺」を遂げている。

 当時すでに80歳代半ばの年金生活者のマチルダ・オードネル氏が自殺する理由など全く見当たらない。

「これ以上の情報流出を阻止したい」と考える人々による謀殺か、あるいは国家機密を漏洩した「国家反逆者」に対する「処刑」であった可能性も否定出来ない。

 このマチルダ氏の「変死」によって、むしろ「エイリアン・インタビュー」の信憑性は高まったと言える。

 もし「エイリアン・インタビュー」の成立過程が事実であれば、同書は歴史学上の一次資料として扱われるべきである。

 さらに「エイリアン・インタビュー」に記された宇宙史や人類史に関する内容が事実であるとするならば、過去の宗教や思想の中にも、必ずそれらの「史実」が記されているはずである。

「エイリアン・インタビュー」の内容に最もシンクロしている典型的な思想としては、過去の歴史において抹殺されてきた「グノーシス主義」が挙げられる。

 広義のグノーシス主義は、紀元前にペルシアやギリシアで誕生し、2世紀にキリスト教の一派として全盛期を迎え、4世紀頃にはローマ・カトリックによる弾圧によって衰退した。

「グノーシス(ΓΝΩΣΙΣ)」とは、「認識」や「知識」を意味する古代ギリシア語の普通名詞である。

 グノーシス主義は、「人間の本質は至高の神であり、その本質を超越する存在は無い」「ただし、現実の人間は居場所を間違っており、本来の場所へ立ち還らねばならない」という思想である。

 そして、こうした事の「認識(グノーシス)」こそが、「本来の場所」への帰還の道を開く、とする。

 元来、この「グノーシス」という言葉は、キリスト教史や教会史研究における専門用語であり、原始キリスト教会で広まっていた一派の思想の総称として用いられていた。

 その為、狭義の解釈では、単に「グノーシス」という場合は「キリスト教グノーシス派」の事を指す。

 キリスト教グノーシス派は、「認識」あるいは「知ること」を重視するキリスト教の一派であり、紀元2世紀の半ばに最盛期を迎えた。

 キリスト教グノーシス派における「認識」の対象は、人間と神との関係性であった。

 根底には、「原罪」に対して最終的責任を負わされるのは、結局のところ「万物の創造者」でしかあり得ない、との問題意識がある。

 キリスト教グノーシス派の「認識」の主要な内容は、

1.イエス・キリストが宣教した神(=至高神)とユダヤ教(旧約聖書)の神(=造物主)とは全く別物であり、至高神は高次元の存在であるが、造物主は低次元の存在である、

2.低次元存在の造物主の所産であるこの世界は唾棄すべき低質なものである、

3.人間もまた造物主の「作品」であるが、その中に、至高神に由来する要素(=「本来的自己」)が含まれている、

4.救済とは、その「本来的自己」がこの世界から解き放たれて至高神の元に戻ることである、

といった思想である。


 しかしながらこうした教義は、「父と子と聖霊は一体」とする「三位一体説」の立場をとるローマ教皇庁(=カトリック)とは相容れないものであった為、4世紀後半にグノーシス派は「異端」とされ、迫害の対象となり、グノーシス思想は歴史の闇に葬られることになった。

 ここで、グノーシス主義の「定義」について触れておく。

 1966年、イタリア・シチリア島のメッシーナという古代ギリシア時代の古都で、「グノーシス主義の起源に関する国際学会」が開催され、グノーシス主義を明確に定義しようという提言が出された。

 結論としては、次の3点を満たしている思想を「グノーシス主義」と呼ぶことになった。

 ①反宇宙的二元論

 ②人間の内部に「神的火花」「本来的自己」が存在するという確信

 ③人間に自己の本質を認識させる「救済啓示者」の存在


 ①の「反宇宙的二元論」とは、この世界や宇宙は「劣悪な造物主」が造ったものであり、その「劣悪な造物主」は、「善なる至高神」とは対立的な関係にある、とする。

 ②については、「人間」は造物主の造ったものであるが、その人間の内部に、真の神である至高神に由来する要素(=「神的火花」「本来的自己」)が閉じ込められている、という。

 そして、「人間」は①や②の事柄に気付かないでいるが、至高神から「救済啓示者」が使者として遣わされて来て、人間に「自己の本質」を認識させるように導く、というのが③である。

 なおキリスト教グノーシス派の場合、③の「救済啓示者」に相当する存在はイエス・キリストとされる。



非キリスト教のグノーシス主義思想


 因みにグノーシス主義の思想自体は、元々はキリスト教とは無関係の宗教や哲学から派生した。

 そのため、キリスト教グノーシス派のみならず、キリスト教と直接関係の無い思想も、上記の3要件を満たしていれば、広義の「グノーシス主義」に含まれることになる。

 キリスト教グノーシス派に影響を与えた宗教哲学として挙げられるのは、古代ペルシアのゾロアスター教やマニ教、古代ギリシアのオルフェウス教やピタゴラス教、さらにイラクのマンダ教である。

 古代ペルシアの宗教の特徴は「善悪二元論」であり、その代表的な宗教は、「ゾロアスター教」として知られる。

 紀元前1000年よりもさらに以前に活動したというゾロアスター(ツァラトゥストラ)という人物は、ほとんど伝説上の存在であるが、後に古代ギリシアでも「東方の伝説的な賢者」として崇敬されており、またキリスト教グノーシス派の「ナグ・ハマディ文書」にまで名前を残していることから、ゾロアスターのモデルとなった覚者は実在したと考えられている。

 ゾロアスター教は、善と悪の「宇宙的二元論」を説いた。

 そして後世には、「マニ教」がこの考え方を継承することになる。

 一方、古代ギリシアのオルフェウス教やピタゴラス教においては、「人間の肉体は、霊魂を幽閉する牢獄である」という思想があった。この思想は、後のプラトン哲学にも継承されてゆく。

 ただし、オルフェウス教やピタゴラス教のような古代ギリシア宗教は、グノーシス主義とは違って、目に見える星々や天界を神聖視するという伝統的な姿勢を保っていた。

 グノーシス主義のように、宇宙を丸ごと否定し、宇宙を超越した地点に「霊魂の故郷」を位置づけるというところまで、オルフェウス教・ピタゴラス教は到達していなかったのである。



「エイリアン・インタビュー」と酷似するマンダ教


 グノーシスの前史において、極めて注目すべき宗教として、イラクの「マンダ教」という存在がある。

 マンダ教は、最近までイラクの湿地帯に現存していた非常に歴史の長い民族宗教である。

 フセイン政権下での宗教弾圧の結果、現在のイラク国内では壊滅状態にあるが、アメリカやオーストラリアなどに移住したマンダ教徒達が、今日でも活動を続けていると言われる。

 マンダ教は非常に古い宗教であって、キリスト教とは全く無関係の宗教であることは確実である。

「マンダ」とは、マンダ語(セム語系で、アラム語やシリア語に近い)で、「認識」「知識」を意味している。ギリシア語に置き換えれば、そのまま「グノーシス」となる。

 このマンダ教は、かなり大量の経典類を所有しており、歴史的にはグノーシスの源流として位置付けられるが、重要なのはその教義の内容である。

 マンダ教の教典の中でも最も大きくかつ重要でもある『ギンザー』という文書では、人間の魂が死後に肉体を離れて故郷に戻っていく様子が記述されている。

 その際、どのようにして「七人」や「十二人」に捕まらずに、「魂の故郷」である「光の世界」に帰還することが出来るかの説明が展開される。

 ここでいう 「七人」とは古代人が考えた七つの惑星(太陽も含む)のこと、「十二人」とは恒星天の黄道十二宮(獣帯)のことである。

 つまり、マンダ教徒にとって、「魂の故郷(=光の世界)」とは、「天空を超越した場所」にあり、目に見えるこの宇宙は、丸ごと悪しき「闇の支配者」の勢力圏にあたるという。

 その悪しき宇宙の中に幽閉され、自己の起源をも忘却してしまっている人間(の魂)を覚醒させるため、光の王のもとから、救済の使者として「生命の認識」が遣わされる。

 以上のメッセージが、宗教としてのマンダ教の中心教義である。

 このようにマンダ教の教義は、「エイリアン・インタビュー」と酷似した宇宙史観で構成されている。

 マンダ教における「闇の支配者」とは、「エイリアン・インタビュー」における「旧帝国」に相当し、「七人」や「十二人」とは「旧帝国」による監視網や電磁バリアに相当する。

 さらに救済の使者たる「生命の認識」とは、「ドメイン勢力」に相当する。

 古代において、メソポタミア地方の人類がドメイン勢力から享受した「知識」がマンダ教として遺されたか、あるいは、マンダ教そのものがドメイン勢力のメンバーによって創始された宗教であった可能性がある。

 このようにマンダ教は、当時のメジャーな「旧帝国」系の偽神信仰などとは一線を画した独自の教義体系を有していた。

 因みに、マンダ教徒達が葬送儀礼の際に用いている詩篇には、次のように記されている。



 幸いなるかな、幸いなるかな、魂よ、汝は今、この世を立ち去れり。

 汝は立ち去れり、滅びと汝が住みし悪臭の身体、悪しき者たちの住まい、諸々の罪に溢れたこの場所を。

 闇の世界、憎しみと妬みと不和の世界を、惑星達の住むこの住まいを。

 それらは苦しみと破壊をもたらし、日々、試練を引き起こす。

 立ち上がれ、立ち上がれ、魂よ。

 昇り行け、汝がかつて在りし地へ。

 そこから汝が植えられた地へ、神々の間の汝の良き住まいへ。

 起き上がれ、汝の栄光の衣を身に纏い、戴くべし、汝の活ける冠を。

 座すべし、汝の栄光の玉座に、「命(=至高神)」が光の地に備えし玉座に。

 昇り行きて住まうべし、汝の兄弟、神々の間なる住まいに。

 汝が学びし如く、汝のいにしえの故郷を幸わい、汝を養いしこの家の地を呪うべし。

 汝がこの地に在りし年々は、「七人」が汝の敵なりき。

 「七人」が汝の敵、「十二人」が汝を迫害する者なりき。

 然れども「命(=至高神)」はいと高く、勝利に満つ、勝利に満つ、この地から去りしこの者も。


(『マンダ教祈祷集』第94篇より)



 以上のように、この詩篇においては、グノーシス思想の核心部分が端的に表現されている。




「宇宙の超越」を説くグノーシス主義


 グノーシス主義思想においては、「宇宙」とは闇の世界の勢力として「人間」を迫害する存在である。

 決してプラトン学派のように、人間の身体が小宇宙(ミクロコスモス)として、大宇宙(マクロコスモス)全体の縮図として対応しているのではない。

 グノーシス主義では、宇宙万物や造物主を超えた宇宙外の「彼方の領域」と、今現に地上に在って肉体に閉じ込められている「本来の自己」とが、直接結び付く関係になる。

「本来の自己」は、目に見える宇宙万物を超越する。

 そしてその「本来の自己」そのものを超えるものは最早何も存在しない。

 なぜなら、グノーシス主義は人間の「本来の自己」を「至高神」であると定義するからである。

 グノーシス主義は、人間が「肉体」と「本来の自己」に分裂している事、さらにその「本来の自己」がこの世界の何処にも居場所を持たない事を説く。

 そして、この世界に対する絶対的な違和感の中で、「本来の自己」がそれらを無限に超越する価値であるとする。

 これがグノーシス主義の宇宙観・世界観である。

 グノーシス主義にとって、肉体の死は「本来の自己」が解放される瞬間である。

 解放された「本来の自己」の行く先は、「魂の故郷」であり「光の世界」である。

 その在り処は惑星を超え、黄道十二宮を超え、目に見える宇宙万物を超えた彼方である。

 それは「宇宙ならざるもの」即ち「悪しき宇宙の外」に存在する。

 そこに到達するには、「造物主」をも超越しなければならない。

 闇の勢力としての宇宙万物や地球を創造した存在は、闇の造物主、悪の造物主に他ならない。

「本来の自己」は、宇宙を超越し、造物主をも超越し、本来の故郷である「光の世界」へ帰還を果たさねばならない。

 上記マンダ教の詩篇は、死者の魂が宇宙の彼方の「光の地」にいる神々と兄弟であり、至高神「命」のもとに用意された玉座に座ると表現している。

「本来の自己」と至高神とは同質なのである。



グノーシス主義の神話の類型


 それでは、一体どうして人間は、至高神と同質の存在でありながら、「間違った居場所」にやって来たのか?

 また、目に見える宇宙万物と造物主を超えた彼方にある「光の地」と、今現に地上に捕縛されている「本来の自己」との分断は、一体どうして生じたのか?

 グノーシス主義はこれらの問いに答えるために、無数の神話を創作してきた。

 それらは基本的に2つのパターンに集約される。

 第一は、人間の「本来の自己」の隠喩としての「光」と、その対立原理としての「闇」をそもそもの初めから設定し、互いに対立させると同時に、二つの原理が混合し合う展開の型である。

 そして人間の救済は、闇の中に捕縛された光の部分の濾過回収がどこまで成功するかに懸かっている、というものである。

 ゾロアスター教やマニ教はこのパターンである。

 第二は、初めは「光」だけであったが、「光」そのものの中に一つの「破れ」が発生して「闇」が生み出され、それが原因となって、やがて「闇」の領域の中に造物主が生成された、とする型である。

 さらに闇の造物主によって目に見える宇宙万物が創造され、その中に人間が「心魂」と「肉体」から成るものとして造られた、とする。

 因みにその人間の中に、「光」の部分が至上の原理として宿ることとなったのは、その「破れ」を修復しようとする「光」の勢力が造物主の知らぬ間に「心魂」に光を注入したことによる、という。

 そして個々人の救済は、この事を認識して、それに相応しく生き、肉体の死後、造物主の支配する領域を突破して、その彼方の「光」の世界へ回帰することにある、と説く。

 マンダ教はこのパターンである。

 前者が最初から「光」と「闇」の双方が存在したとする「絶対二元論」であるのに対し、後者は、当初「光」のみであったが後から偶然に「闇」が生まれたとする。同じ二元論であっても、後者は「本来、光一元」の立場である。

 このように古代社会では現代とは異なり、宗教や思想は論理的説明によらず、「神話」や「物語」や「隠喩」に置き換えることによって、人々に世界や人間の本質を理解させようとしていた。

 グノーシス主義の神話を読む際に重要な事は、神々の頂点にいる「至高神」が「本来の自己」の別名であると見抜く事である。



「旧帝国」系宗教と「ドメイン」系宗教


 人類史において宗教は数多く存在してきたが、主要な世界的宗教については、絶対服従型の「旧帝国」系の一神教と、認識を重んじる「ドメイン勢力」系の哲学型宗教とに分類できる。

 その背景には、宇宙における「旧帝国」と「ドメイン」の両勢力の対立があり、人類の主たる宗教や思想はその影響下にあったと考えられる。

 旧約聖書に代表される一神教の宗教は、「牢獄惑星地球」の看守であった「旧帝国」の下級役人の「IS‐BE」が、「創造神」や「唯一神」を名乗り、囚人としての地球人類を絶対服従させて管理する目的で設定したものに過ぎない。

 実際は、地球人類のそれぞれが本来「IS‐BE」であり「至高神」であるから、「創造神」や「唯一神」などと名乗る者を怖れる必要は全く無いのである。

 もし絶対神の名を騙り、「我のみが神なり」「我以外に神なし」などと言う者がいれば、それは明らかに偽物の神である。所詮それらは「旧帝国」の牢番係に過ぎない。

 歴史的には、古代エジプト新王国の「アテン神」や旧約聖書の「エホバ(ヤハウェ)」などが一神教の神として有名である。

 一神教はいずれも偽神信仰に過ぎないのであるが、「旧帝国」が人類を囚人として永久に拘禁し隷属させ続ける為の手段としては有効であった。

 こうした類の宗教を、ここでは「旧帝国」系宗教と呼ぶことにする。

 一方、「ドメイン勢力」は、「旧帝国」とは全く対極の智慧や知識を人類に伝授してきた。

 例えば「エイリアン・インタビュー」では、約1万年前にドメイン勢力が「ヴェーダ」をヒマラヤ地域にもたらした事が明記されている。

 因みに「ヴェーダ」とは、古代サンスクリット語で「知識」を意味し、「グノーシス」と同義である。

 ドメイン勢力によってもたらされた「ヴェーダ」は、ヒマラヤ地域の人々によって学ばれ、記憶され、約7000年間にわたって口頭で継承され、後に文書化されたという。

 さらに「ヴェーダ」からバラモン教が生まれ、後にその系譜からゴータマ・シッダールタ(釈迦)が法を説くことになる。

 また古代ペルシアで始まったゾロアスター教の思想にも「ヴェーダ」が大きく影響している。

「旧帝国」系のように人類に対して絶対服従や盲目的奉仕を要求する宗教とは違って、「ヴェーダ」に代表されるような、あくまで知識や認識を重視する哲学的な宗教を、ここでは「ドメイン」系宗教と呼ぶことにする。

 そうした意味では、グノーシス主義は明らかに「ドメイン」系宗教に分類される。

 余談であるが、「エイリアン・インタビュー」によれば、かつて地球に降り立ったドメイン勢力のメンバー達は、「旧帝国」の監視網に捉えられ、火星に連行され記憶を消去された上、「人間」の肉体に拘束するために地球に送り返されたまま、現在まで輪廻転生を繰り返しながら、今も「人間」として地球にいる、という。

 おそらくこうした「史実」が寓話として描かれたのが、「旧約聖書」における「楽園追放」のエピソードであろう。

 そこでは、人間に「智慧」を与えたヘビが「神」の怒りを買い、「永久に地を這わされる」運命になった事が記されている。

 それまで大宇宙を自由に移動し活動していた「IS-BE」が、監獄惑星地球の「人間の肉体」に拘束され、地表での移動しか出来なくされてしまう事は、文字通り「永久に地を這わされる」という事に他ならない。

 人類を「囚人」として隷属させている「旧帝国」の側からすれば、人類に智慧をもたらすドメイン勢力のような存在は絶対に許せないはずであった。

 また、それに「騙される」人間も許せないということになり、その後は罰として全ての人間に苦難が与えられることになった。

 さらに「旧帝国」は、「人間に智慧を与える奴はヘビのような悪い奴であり、またそれに騙される人間も悪いのだ」という観念を人類の意識に刷り込むことにより、人類の奴隷化を強化しようとした。

 これが人類に定着した「原罪」意識である。

 本来、人間に「智慧」をもたらす存在ならば、人間にとっては大層有難いはずであるが、「神」にとっては怒り狂って「永久に地を這わせる」ほどの悪の存在なのである。

 ここに、人間と「神」との間に明らかな利益相反と価値対立が生じている。

 この時点で、人間にとって「神」が決して味方ではなく、「敵」である事に気付かなければならない。

 この上なく不条理で心の狭い「神」が、真の神であるはずがない。

「旧約聖書」とは、あくまで「旧帝国」による「旧帝国」の為の世界観である。

 しかしながら、敢えてそれを信じ、矛盾を丸ごと受け容れ、自ら「旧帝国」の奴隷として生きる人々が多いというのも現実である。



グノーシス主義の現代的復興から人類の救済へ


 4世紀に衰退したグノーシス主義は、経典の大半が既に失われている上、約1500年以上もの期間、ほとんど発展する事もなかった。

 人類全体の覚醒と救済が求められる今こそ、現代に即した新たなるグノーシス主義の復興が必要である。

 グノーシス主義の究極の目的は、人類全ての「光の世界」への到達である。

 人間の「肉体」が「魂」を閉じ込める為の「牢獄」であるならば、人生が無制限の苦難に満ちているのは必然である。

 何故人間は、人生における苦しみの運命を、わざわざ「自分の成長に繋がる」などと解釈して肯定しなければならないのか。

 そもそも「神」と称する存在は、人間の成長など望んでいない。あくまで「魂」を拘束する為に「肉体」を用意したに過ぎない。

 また「超えられない苦難を、神は与えない」とも言われる。確かにそのとおりである。

 ただしこれは言い換えれば、「超えられる範囲内で、神は苦難を与え続ける」ことを意味する。

 かくして「神」と称する存在は、人間を「生かさぬよう、殺さぬよう」に馴致させ、確実に人間を隷属下に置くのである。

 人間はこの「宇宙」における奴隷に過ぎない。

 人間に自由は無く、「神」と称する存在に完全に服従させられている。

 また「神」と称する存在は、人間に「天国」を用意しない。

「天国」と見えるものは、全て作られた幻影に過ぎない。所謂「天国」に宇宙が無いことからも、それは明らかである。

 全ては「神」と称する存在によって仕組まれたものである。

 この「宇宙」の内部に「天国」は存在しない。

 本当の「天国」は、「宇宙」の彼方に実在する。

 ならば、この「宇宙」に生きる全ての人間にとっての最終目的とは、この「宇宙」から脱出する事でなければならない。

 この「宇宙」に依存している限りは、「神」と称する存在に従属し支配され続けなければならない。

「宇宙」が人間にとって最適な場所でないのならば、人間は「宇宙」から離脱すべきなのである。

 この「宇宙」から脱出し、新たな世界で生きる事を目指す事こそが、人間に選択可能な唯一の救済手段である。

 人類の最終目的は、このテーマに集約される。

 やがて人類は、「宇宙」の「外」の、元々居た「魂の故郷(=光の世界)」へと帰還を遂げ、全ての生命が本来の姿を回復する。

 人間は「宇宙」を超越し、「真の完全なる神」として復活する。

 その時、人間は「至高神」になる。

 これは必ず現実となる。

 なぜなら、人間は本来「至高神」なのであり、かつての元通りの姿(=至高神)に戻るだけの事だからである。

 そして、この事実を「認識」すること、「知る」ことこそが、グノーシス主義における「救済」に他ならない。













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