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冤罪事件が作られる根本問題について

「袴田事件」は如何にして生み出されたか

[2023.4.15]




1942年1月の静岡県警察部浜松署 (左端が紅林麻雄

「勧善懲悪」の社会風潮がもたらす「冤罪」


 小説や映画などの世界では、「正義」を振りかざして「悪」を退治する「勧善懲悪」のストーリーは、無前提に「良いもの」として普遍的に受け入れられてきた。

 日本国内では、1980年代までは、年末の大晦日には「忠臣蔵」の映画が必ずと言ってよいほど毎年テレビ放映されていた。

「日本三大仇討ち」の一つとされるこの物語は、大河ドラマでも何度も取り上げられたテーマである。

 赤穂四十七士が吉良上野介を討ち取るシーンでは、視聴者はみな心の中で拍手を送りながら見ていたであろう。

 しかしながら、果たして吉良上野介が、そのような殺され方をしなければならないほどの悪事を犯した人物なのかどうかについては、ほとんど誰も考えて来なかったはずである。

 現代の価値観からすれば、「松の廊下事件」では、逆切れして暴行に及んだ浅野内匠頭が明らかに悪いことは誰でも分かる。この場合、無抵抗だった吉良上野介は完全な被害者である。

 また、刃傷沙汰の責任により浅野内匠頭が「切腹の上、お家断絶」の処分を受けた事も自業自得であり、当然の処分である。

 しかもその処分を下したのは幕閣であって、吉良上野介は全く無関係なのである。

 それにも関わらず、赤穂藩の失業者達が、本来被害者であった吉良上野介を逆恨みして集団で惨殺するという行為は、非道極まりない蛮行であるばかりか、論理的整合性が全く存在しない。

 このような当たり前の事が分からなくなってしまうのが、「勧善懲悪」の道徳感情である。

「勧善懲悪」の危険性は、「勧善懲悪」感情が人間に「思考停止」をもたらす事にある。

「忠臣蔵」の物語は、赤穂側が「正義」、吉良上野介が「悪」と最初から決めつけて、「正義が悪を退治する」という「勧善懲悪」の単純な図式で誰もが鑑賞する。

 ここで重要なのは、「勧善懲悪」の物語ばかりを見続けると、思考停止によって、意識の「退化」あるいは「幼児化」がもたらされるという問題である。

 因みに、21世紀に入ってからは、大河ドラマでは忠臣蔵や赤穂浪士ものは一切扱われなくなった。

 また、年末に「忠臣蔵」を放映するテレビ局は、現在では存在しない。

 この事は、日本人の意識が成熟し、民度が向上してきた事を示していると言えよう。

 なお「勧善懲悪」の問題は、「忠臣蔵」に限った事ではない。

 約50年前の1970年代に日本でもブームとなった米国ドラマの「刑事コロンボ」では、主人公のコロンボ警部が犯人を追い詰める為に、証拠の捏造をする場面が数多く見られた。

 当時の多くの視聴者は、「犯人を逮捕する為なのだから、証拠捏造も許される」「さすがコロンボ、頭がいい」などと思いながら見ていたはずである。

 また1970年代に全世界でヒットした米国映画「ダーティーハリー」では、悪を倒す為に、主人公の刑事が敢えて拷問や殺人といった違法行為に手を染めながら戦うという、今ではかなり問題になるような内容であったが、当時は世界中で人気を博していた。

 このように、今から半世紀前には「勧善懲悪」の道徳感情が広く蔓延しており、「善者」が「悪者」をやっつける為に「拷問」をしたり「証拠捏造」を行う事は、「止むを得ない」あるいは「当然の必要悪だ」といった意識が社会全体を支配していた。

 さらに「勧善懲悪」に凝り固まった人々は思考停止に陥る為、「死刑判決が出た奴だから悪人に違いない」「悪人は早く死刑にすべきだ」という意識になりやすい。

「吉良上野介は悪い奴に決まっているから早く殺せ」と思う人々と同様である。

 そのような社会風潮が、あるいは当時の一般国民の意識が、「袴田事件」をはじめ数多くの冤罪事件を作り出してきたと言っても過言ではない。

 そして、かつて「昭和の拷問王」と呼ばれた怪物を生み出したのも、まさに「勧善懲悪」の風潮に毒された日本社会そのものであった。

 静岡県内で発生した冤罪事件は、袴田事件だけではない。

 袴田事件以前にも、「幸浦事件」(1948年)、「二俣事件」(1950年)、「小島事件」(1950年)、「島田事件」(1954年)と、なぜか静岡県内において短期間の間に重大な冤罪事件が続いていた。

 同じ静岡県内で、袴田事件を含めて大量殺害事件が18年間の間に5件も発生したということ自体が異常であるが、その5件がいずれも冤罪事件であったという事実はさらに異常である。

 戦後の静岡県内で短期間にこれほど数多くの冤罪事件が作られたのは、一体何故か。

 この問題を考える際、「昭和の拷問王」と呼ばれた静岡県警刑事課の「紅林麻雄(くればやし あさお)」という警部補の存在を抜きには語れない。

 以下、紅林麻雄が関わった幸浦事件、二俣事件、小島事件、島田事件について概要を紹介する。



幸浦事件(1948年)


 幸浦事件(さちうらじけん)とは、日本中を震撼させた「帝銀事件」と同じ年に静岡県で起きた強盗殺人事件である。

 1948年11月29日、静岡県磐田郡幸浦村(現・袋井市)の自営業を営む主人を含む一家4人が忽然と失踪した。静岡県警は、翌年2月に別件で逮捕した4人を一家4人殺害の犯人として取調べた結果、容疑者らの「自供」により、一家4人の絞殺遺体が埋められていた事実を「発見」する。

 この際の警察の取調べにおいては、4人の手や耳に焼火箸を押し付けるなどの拷問を加えたり、白紙の紙に刑事が自供を書き、彼らに無理やり承諾させて、さも4人から自供を聴取していたかのように装っていたりするなどのデッチ上げを行っていた。

 さらに、あらかじめ警察が知っていた遺体遺棄場所に、警察が印を付け、現場検証の際に容疑者4人にその場所まで案内するよう誘導し、その上で遺体を「発掘」するという証拠捏造まで行っていた。

 容疑者4人を無罪に導いた最たるものは、「秘密の暴露」であるはずの遺体発掘前に印がついていたことが判明し、捜査当局による証拠捏造の疑いが濃厚となった為である。

 この取調べの際の拷問や証拠捏造を率先して行ったのが、静岡県警の紅林麻雄警部補であった。因みに、後の二俣事件や小島事件といった冤罪事件にも彼が関与している。

 裁判では被告人4人とも無実を主張したが、1950年、静岡地裁は3人に死刑判決、1人に懲役1年の判決を出した。翌年、東京高裁は4人の控訴を棄却する。

 しかしながら1957年、最高裁は「重大な事実誤認の疑いがある」として、東京高裁に差し戻し、1959年、4人全員に無罪判決が出る。その後、1963年、検察の上告が棄却され、4人の無罪が確定した。

 なお紅林麻雄は、同事件の被告の無罪が確定したのを機に、1963年、警察を退職した。



二俣事件(1950年)


 だが、現職中に犯した紅林麻雄の悪行はこれに留まらない。

 二俣事件(ふたまたじけん)は、後に同じ静岡県内で起きた袴田事件と並ぶ冤罪事件として知られる。この事件では、当時静岡県警察の警部補であり、多くの冤罪を作った紅林麻雄による拷問での尋問と自白強要、これに基づく供述調書作成などが、同僚警官の告発書によって広く社会に知られるようになった。

 1950年1月6日、当時の静岡県磐田郡二俣町(現在の浜松市天竜区二俣町)で、就寝中の一家4人が殺害された。

 同年2月23日、警察は近所の住人である少年(当時18歳)を、犯行当時の所在が不明であるという、犯行の証明にならない推測を理由にして本件殺人の被疑者と推測し、窃盗被疑事件で別件逮捕した。警察は自白の強要と拷問を行って、少年が4人を殺害したとの虚偽の供述調書を作成し、その旨を報道機関に公表した。

 なお、この供述調書において、殺害現場の柱時計は23時に止まっており、犯行時間が23時の場合はアリバイがあることになるが、警察は、少年が推理小説マニアで、止まった時計の針を回してアリバイを作るという偽装工作が出てくるミステリー映画「パレットナイフの殺人」を見ており、近くで当該作品が上映されていることなどの傍証を積み上げてアリバイを否定した。1950年3月12日、検察は少年を強盗殺人の罪で起訴した。

 少年の無実の根拠は下記のとおりである。

 被害者宅の破損した時計に付着していた、被害者の血痕が付いた犯人のものと推測される指紋は少年の指紋と合致しない。

 少年の着衣・所持している衣服・その他の所持品から、被害者一家の血痕は検出されていない。

 少年の足・靴のサイズは24cmであり、被害者宅の建物周辺で検出された、被害者一家の靴と合致せず犯人の靴跡と推測される27cmの靴跡痕とも合致しない。

 被害者一家の殺害に使用された鋭利な刃物を少年が入手した証明が無い。

 司法解剖の結果、4人の死亡推定時刻はいずれも23時前後であり(検察が主張する犯行時刻は21時)、少年は23時頃には父の営む中華そば店の手伝いで麻雀店に出前に来たという麻雀店店主の証言がある。

 少年を尋問した紅林麻雄警部補は、拷問による尋問、自白の強要によって得られた供述調書の作成を以前から行っており、幸浦事件や小島事件の冤罪事件を発生させている。

 ただし静岡県警の中にも、こうした紅林麻雄の拷問手法や証拠捏造といったやり方を、見るに見かねた刑事が存在した。

 本事件を捜査していた山崎兵八刑事は、読売新聞社に対して、紅林麻雄警部補の拷問による尋問、自白の強要、自己の先入観に合致させた供述調書の捏造を告発した。

 さらに山崎刑事は、法廷において弁護側証人として、本件の紅林麻雄警部補の拷問による尋問、自白の強要、自己の先入観に合致させた供述調書の捏造、および、紅林麻雄警部補が前記のような捜査方法の常習者であり、県警の組織自体が拷問による自白強要を容認または放置する傾向があると証言した。

 これに対し、静岡県警は山崎刑事を偽証罪で逮捕した上、懲戒免職処分にした。さらに検察は、精神鑑定(名古屋大学医学部の乾憲男教授により山崎兵八氏は脊髄液を採取された)において「妄想性痴呆症」の結果が出たとして、山崎兵八氏を「責任能力なし」として不起訴処分にしている。

 まさに、警察・検察・裁判所・大学が一体となった隠蔽工作が実施されたのであった。

 強盗殺人で起訴された少年は裁判で無実を主張したが、1・2審とも死刑判決が出された。だが53年最高裁はこれを破棄し、差戻し審で、静岡地裁が無罪判決、東京高裁は検察の控訴を棄却して、検察が上告しなかったため、少年の無罪が確定した。死刑判決が覆って無罪が確定した日本で初めての事件となった。

 二俣事件の公判では、拷問が疑われるような強引な取り調べによって得られた自白調書を易々と証拠採用して、有罪判決を導いた裁判官の存在が大きい。

 二俣事件の裁判では、被告が公判で「私は拷問をされた」と訴えたから、裁判官も拷問があったことは分かっていたはずである。しかし、たとえ拷問を受けたとしても、被告人が「やりました」と言った以上、「実行犯に間違いない」という論理が罷り通っていたのである。

 こうした前近代的司法に変化をもたらしたのは、二俣事件の上告審から弁護団に加わり、死刑判決破棄、無罪判決を勝ち取る中心となった清瀬一郎弁護士であった。

 清瀬一郎氏は、極東国際軍事裁判(=東京裁判)において東条英機元首相の弁護人を務めた人であり、戦後史を勉強した人であれば、知らぬ人はいないくらいの著名人である。

 清瀬一郎氏は、政治家としては文部大臣や衆議院議長などを務め、弁護士としては、二俣事件のように、死刑判決を受けた被告人に史上初めて逆転無罪判決を勝ち取るという快挙を成し遂げた人物である。根底には常に正義感と博愛主義を有していた人として知られている。

 これほどの大人物が加勢してくれて、ようやく前近代的司法に風穴を開ける事が出来たのである。

 しかしながら、清瀬一郎氏がいなくなれば、また元の木阿弥に戻ってしまったのだった。



小島事件(1950年)


 さらに紅林麻雄の凶暴性が如何なく発揮されたのは、小島事件(おじまじけん)である。

 小島事件は、静岡県庵原郡小島村で発生した強盗殺人事件である。

 1950年5月10日深夜、静岡県庵原郡小島村(現・静岡市清水区)で、飴製造業者の妻(当時32歳)が薪割り斧で撲殺された。現場のタンスや金庫には物色された跡があり、後に2500円が奪われていることが分かった。

 翌朝には静岡県警から、警部補の紅林麻雄を主任とした捜査員らが派遣された。

 事件から約1カ月後、村人達への聞き込みから、同村の農民である男性(当時27歳)が浮かび上がった。被疑者男性は、被害者の娘の目撃証言とも髪型や年齢などが一致しており、また事件以来顔色が悪くなったと噂され、事件当時のアリバイもはっきりせず、被害者一家に5000円の借金があった。加えて被疑者男性は、被害女性の夫から持ちかけられたサツマイモの闇取引で、自分だけが罰金刑を受けたため、被害者一家に対し恨みを抱いていたとも言われていた。

 6月19日、被疑者男性は、材木などの窃盗容疑につき、同日中に別件逮捕された。 別件逮捕の翌日の6月20日、被疑者男性は、飴製造業者の妻殺害を自白した。

 逮捕翌日から本件の強盗殺人容疑で静岡地裁に起訴される7月20日までの間、被疑者男性は、飴製造業者の妻殺害の容疑で取調べを受け続けた。

 だが、事件には被疑者男性の自白を除いては直接証拠がなく、後の裁判でも、争点は自白の任意性と信用性に収束した。

 警察による取調べでは、激しい拷問を受け続け、自白を翻そうとする度にそれが繰り返された、と被疑者男性は主張している。

 被疑者男性が書いた「最高裁宛上申書」には、次のように記されている。

「刑事が『顔をなぐつて来た』のであります(平手と握りで往復で二、三十回程)。そして此の野郎まだいわぬかといつて『足をけること前横より十四、五回位』なぐる、けることをくりかえしてやり、又正座している膝の上に乗つていうまでだぞといつて二、三分位づつ五、六回無茶苦茶に踏み付けたり、おどかしたり、鼻に指を入れて引つぱること二、三回此の時痛いので引つぱる方について行つたりして座敷を廻つたこともあります。正座している膝の処のズボンをつかんで座敷を引きずり廻したことも二、三回あります。此の間刑事も此の野郎嘘つきだといつて顔を平手で五、六回なぐりました、〔中略〕二人に約四、五十分にわたり拷問されたのであります。」

 被疑者男性は、6月20日に自白を行ったのは上のような拷問を受けたためである、と主張し、公判の段階で自白を撤回し、自身の無実を訴えるようになった。

 事件には自白以外の直接証拠が乏しかったが、第一審の静岡地裁と控訴審の東京高裁はともに無罪主張を退け、被告人に無期懲役の有罪判決を言い渡した。

 しかし、1958年に最高裁は、被疑者が取調べ後に負傷していた可能性や自白の不自然性を指摘し、自白は無理のある取調べの末に得られたもので任意性に疑義がある、と判決した。

 最高裁により有罪判決は東京高裁へ破棄差戻しされ、差戻審において、取調べは強制的なものであったとして無罪判決が出された。1959年に差戻審で下された無罪判決が確定し、事件は冤罪と認められた。

 このように、無罪判決が確定し、冤罪であった事がはっきりするまで、いずれも長い歳月を要している。

 つまり冤罪確定までの期間、紅林麻雄は、何度も表彰される静岡県警の超エリートであり、彼の捜査手法や訊問方法は、他の捜査員達のお手本であり、彼自身が教科書的存在であったことを意味している。

 必然的に、どの捜査員も「ミニ紅林」あるいは「紅林二世」と化して職務に励むようになる。

 逆に、紅林麻雄のやり方に異議を唱えた刑事は逮捕され精神病院に放り込まれる始末である。あたかも共産圏における粛清劇を見ているかのようである。

 これでは、組織の自浄能力はゼロと言って良い。

 このような環境下では、「冤罪の創造」は必然的結果である。

 そうした意味で、これから述べる島田事件(しまだじけん)は、紅林麻雄の弟子達によって作られた冤罪事件であり、ある意味で後に起こる袴田事件の前哨戦として位置付けられる。



島田事件(1954年)


 島田事件は、我が国における「四大死刑冤罪事件」(免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件)の一つとして有名であり、日本弁護士連合会が支援していたことでも知られる。

 島田事件は、静岡県島田市で発生した幼女誘拐殺人、死体遺棄事件である。被告人が死刑の確定判決を受けたが、1989年に再審で無罪になった冤罪事件である。

 1954年3月10日、静岡県島田市の快林寺の境内にある幼稚園で卒業記念行事中に6歳の女児が行方不明になり、3月13日に女児は幼稚園から見て大井川の蓬萊橋を渡った対岸である大井川南側の山林で遺体で発見された。

 静岡県警の司法鑑定医師(後の静岡県警科学捜査研究所長)の鈴木完夫は司法解剖の結果、犯人が被害者の女児の首を絞めて被害者が仮死状態になった後、被害者に対する強姦の有無は不明だが性器に傷害を負わせ、その後に被害者の胸部を凶器不明のもので打撃して殺害したと鑑定した。

 1954年5月24日、当時の岐阜県稲葉郡鵜沼町(現・岐阜県各務原市)において、静岡県警は赤堀政夫(あかほりまさお、当時25歳)氏を職務質問し、法的に正当な理由無く身柄を拘束した上、岐阜県から静岡県内の島田警察署へと護送した。

 静岡県警は赤堀氏を窃盗の被疑事実で別件逮捕し、警察の尋問室の密室の中で拷問を行い、「被害者の女児を性犯罪目的で誘拐し殺害した」との供述を強要した。

 結果、赤堀氏に「被害者の女児を誘拐し強姦して性器に傷害を負わせ、胸部を握り拳サイズの石で打撃した後、首を絞めて殺害した」との虚偽の供述をさせた上で、供述調書を作成し、その旨を報道機関に公表した。

 なお本事件において、赤堀氏の犯罪の証拠とされたものは、事件の犯行を認めた「供述調書」のみであり、事件への関与を証明する物証は皆無であった。

 また、複数人の目撃証言による被害女児誘拐犯と推測される男の人相・体格が、赤堀氏の人相・体格とは著しく異なっていた。

 さらに、赤堀氏に供述を強要して虚偽の供述をさせた調書の殺害方法は、鈴木完夫医師が被害者を司法解剖して鑑定した結果と異なっていた。

 こうした事実関係を、静岡県警は隠蔽し続けてきたのである。

 因みに再審においては、被害者の殺害方法について、弁護側が東京医科歯科大学の太田伸一郎教授と京都大学の上田政雄教授に再鑑定を依頼し、両教授は、捜査段階の鈴木完夫医師の鑑定結果を支持する鑑定結果を報告している。

 明らかに不当な逮捕と犯人のデッチ上げという事例であるにも関わらず、1958年5月23日、静岡地方裁判所は赤堀氏に死刑判決を言い渡した。

 死刑判決の根拠は、「自白」の「供述調書」のみという、まるで絵に描いたような不当判決であった。

 赤堀氏は直ちに無罪を主張して控訴するが、1960年2月17日、東京高等裁判所は第一審の死刑判決を支持し、被告人・赤堀氏の控訴を棄却する判決を言い渡した。

 さらに1960年12月5日、最高裁判所は被告人・赤堀氏の上告を棄却する判決を言い渡し、12月26日付で赤堀氏の死刑判決が確定した。

 死刑囚となった赤堀氏は、1961年8月17日に第一次再審請求を行ったが、1962年2月28日付で棄却された。

 その後、1964年6月6日に第二次再審請求をしたが、1966年2月8日付で棄却された。これを受け同年4月14日に第三次再審請求を行ったが、1969年5月9日付で棄却された。

 これらの対応を見る限り、50~60年代の裁判官は、「疑わしきは被告人の利益に」という近代刑法の理念や「推定無罪」の原則を完全に無視し、警察が作成した「供述調書」をあたかも神聖不可侵の文書であるかのように信奉して判決を下しているようである。

 1969年5月9日に行った第四次再審請求も1977年3月11日付で静岡地裁が棄却を決定したが、赤堀氏および弁護人は同年3月14日付で即時抗告を申し立て、これを審理した東京高裁は、1983年5月23日付で静岡地裁の原決定を取り消し、審理を地裁に差し戻すことを決定した。

 ようやく80年代になると、少しは話の分かる裁判官が出てきたようである。

 その後、静岡地裁は1986年5月30日付で検察(静岡地検)側・弁護人側から提出された双方の鑑定結果を吟味した上で「死刑囚・赤堀氏の自白は被害者の遺体胸部の傷の状況から信用性・真実性に疑問がある」などの理由から再審開始・死刑の執行停止を決定した。

 一方、検察側(静岡地検)は同決定を不服として東京高裁に即時抗告したが、東京高裁は1987年3月25日付で即時抗告棄却(原決定支持)を決定した。その後、検察側(東京高等検察庁)が最高裁に特別抗告しなかった為、再審開始が確定した。

 かくして静岡地裁において1987年10月19日に再審初公判が開かれ、計12回の再審公判でも検察側・弁護人側の双方がそれぞれ法医学者を証人尋問した他、21点の証拠が提出され、改めて「自白の信用性・被害者の傷」などについて証拠調べが行われた。

 1988年8月8日に静岡地裁で再審論告求刑公判が開かれ、静岡地検が再び赤堀氏に死刑を求刑した一方、翌8月9日には弁護人が最終弁論で無罪を主張し、被告人・赤堀氏も最終意見陳述で改めて無実を訴え結審した。

 そして1989年1月31日から再審判決公判が開かれ、静岡地裁(尾崎俊信裁判長)は、被告人・赤堀氏に無罪判決を言い渡した。

 赤堀氏はこの時点まで静岡刑務所拘置監に在監していたが、逮捕以来34年8カ月ぶりに釈放された。

 静岡地検は控訴を検討したが、1989年2月10日に「控訴しても無罪判決を覆すだけの新たな証拠が無い」として控訴断念を決定した為、赤堀氏の無罪が確定した。

 何よりも問題なのは、無実の人を犯人扱いして以降は、本事件に関する捜査が打ち切られ、結果として、殺害事件の真犯人を探し出すことが出来なかったという事実である。

 これでは、事件被害者やその遺族の人達に対しても申し訳が立たない話である。

 というより、静岡県警には、真の実行犯を探す気すら無かったようである。

「証拠が無ければ捏造すれば良い」「犯人が見つからなければ、無関係の人を犯人に仕立てれば良い」

 これこそが静岡県警の哲学思想であり、その思想の教祖こそ、静岡県警の超エリート捜査官で、「昭和の拷問王」と呼ばれた紅林麻雄警部補であった。

 紅林麻雄が1963年に退官して以降も、彼の思想は静岡県警の捜査員達に綿々と継承され、血肉化していった。

 かくして生み出された冤罪事件こそ「袴田事件」に他ならない。



「昭和の拷問王」は如何にして生み出されたか


 では紅林麻雄のような怪物が生み出された背景には、そもそも如何なる事情があったのだろうか。

 紅林麻雄は、もともと優秀な警察官ではあったのだが、巡査部長当時に「浜松事件(はままつじけん)」に遭遇した。

 そしてこの浜松事件こそが、一刑事に過ぎなかった紅林麻雄が「昭和の拷問王」へと変貌する契機となった。

 浜松事件とは、戦時体制下の日本で発生した連続殺人事件である。

 静岡県浜松地方において、1941年8月から翌1942年8月にかけて、短刀で9名が殺害され、7名が傷害を負う事件が発生した。

 1941年8月18日、犯人は芸妓置屋に侵入し1名を殺害、1名を負傷させる。翌8月19日深夜に料理屋で3名を刺殺。翌月の9月27日、犯人は外部からの侵入と見せかけて自宅の兄を刺殺、両親、姉、兄の妻およびその子供の計5名に重軽傷を負わせた。さらに犯人は1942年8月25日にも同様の手口で4名を殺害した。そして同年10月12日に逮捕された。

 本事件の犯人は、聾啞者であった中村誠策(なかむら せいさく)で、最終犯行時点で満18歳であった。

 第3の事件となる自宅での一家殺害は、平素の鬱憤を晴らすため、その他の犯行は強盗・強姦・殺人が目的であったという。

 なお、逮捕直後の1942年11月11日、犯人の実父である中村文貞は天竜川に投身自殺した。

 中村誠策は兄弟7人の6男で、生まれつきの聾啞者で家族から冷たく扱われていた。

 中村誠策は、簡単な言葉しか発音出来なかったものの知能は高く、聾啞学校では首席であった。しかし、他人に対する思いやりなど基本的な人間性が欠如しており、青年を誰よりもいたわっていた長兄を殺害するなど、肉親に対する情愛も欠如していた。また、この9人の連続殺人の他にも1938年8月22日に2人の女性を刺殺したことを自供した。

 中村誠策は、戦時下に行われた犯罪について厳罰を課す戦時刑事特別法によって審理された。公判には多くの地域住民が詰めかけ、極刑を望んだ。静岡地裁浜松支部は被告人を聾啞者ではなく「難聴者」と認定し、聾啞者の刑を減免する刑法旧第40条を適用せず、死刑判決を下した。そして1944年7月24日、中村誠策は21歳で死刑が執行された。

 当時、磐田警察署所属の巡査部長で刑事だった紅林麻雄は、応援で本事件の捜査に加わっていた。

 犯人が自らの家族を殺傷した第3の事件現場において紅林麻雄刑事は、その時に家にいた犯人自身からも事情を聴取していながら、初歩的な確認を怠った為に犯人を捜査対象から外してしまい、結果としてその後に第4の犯行が起きてしまった。

 悔やんでも悔み切れなかった紅林麻雄は、この一件を契機に、以降は拷問を含む強引な取調べを行うようになり、後に「昭和の拷問王」と呼ばれるまでになる。

 因みに紅林麻雄は、浜松事件において事件解決に殊勲をあげたとして、検事総長捜査功労賞を受賞した。

 そしてこれ以降、紅林麻雄は静岡県警内で殺人事件捜査の権威になってゆく。

 県警の上層部も彼を重用し、静岡県内で殺人事件があれば紅林麻雄が指揮官として呼ばれ捜査を指揮するという絶対的な存在になった。やがて誰も彼の言うことに反対出来なくなってしまったという。

 紅林麻雄の捜査哲学は、「疑わしきは罰せよ」の一言に尽きる。

 これは、「浜松事件」における自身の大失態からの反省によるものであろう。

 怪しいと感じた人間は、誰でも捕まえて「自白」させ、後は裁判に委ねれば良いという哲学である。

 この方式で「捜査」を行えば、別件で逮捕した人間を誰でも犯人に仕立て上げる事が出来る為、どんな事件もスピード解決となり、犯罪検挙率は100パーセントを維持し、警察への信頼度は向上、捜査官も出世・昇進出来るという好循環が生まれるのであるから、やめられるわけがない。

 このような紅林麻雄の下で捜査を担当していた刑事達が数多く残り、冤罪を生み出すシステムが代々受け継がれてきた事が持つ意味は大きい。

 かくして「冤罪」は増産されてゆくことになる。

 ここで重要な事は、少なくとも「逆転無罪判決」が出される以前の1950年代においては、紅林麻雄は紛れもなく「刑事の鑑」であり「正義のヒーロー」であったという事実である。

 凶悪事件を次から次へとスピード解決する紅林麻雄刑事に対して、当時は新聞も世間も喝采の声を送っていたのである。

 裁判所の判事達も、「名刑事による捜査なのだから間違いはない」という先入観から判決を下していたものと思われる。

 本来、捜査はあくまで現場鑑識によって得られる有形証拠に基づくものでなければならず、推理重視の「見込み捜査」は極力排除されなければならない。

 しかしながら、あくまで「推理」が大事で、物的証拠は後から捏造しても構わないという紅林麻雄の思想が、警察内部には脈々と受け継がれている。

 袴田事件でも、犯行時の着衣とされるものが、発生から1年以上後になって、味噌タンクの中から見つかったというのは明らかに不自然である。

 紅林麻雄の薫陶を受けてきた刑事達が、袴田事件の捜査を担当した結果がこれである。

 袴田事件のような冤罪事件は、単に警察や検察など捜査当局だけの問題ではない。

 事件の早期解決を求めて警察に圧力をかけたり、犯人に厳罰を要求する世論にも大いに問題があった。

 だが、本来の近代刑法は「推定無罪」が原則であり、「疑わしきは被告人の利益に」が基本理念である。

 捜査においては、事件の早期解決よりも、「冤罪の防止」こそが優先されなければならない。

 この袴田事件によって、我が国の刑事裁判の本質的問題点が浮き彫りにされた。

 それは、自白偏重主義による「自白の強要」であり、公益の代表者たる検察官による「証拠の隠匿および捏造」である。そして、裁判所が無実の者を誤って有罪と認定し、長期間その誤りを正さなかったことである。

 捜査官が身体拘束を盾に被疑者を威圧したり、利益誘導を行ったりして、虚偽自白を迫ってきた事件は数多く存在する。

 冤罪を防ぐためには、刑事裁判における全面的証拠開示が必要不可欠であることは、これまでの冤罪事件を検証すれば明白である。

 無罪に結びつく鑑定が隠されていた東電OL殺人事件、現場近くで目撃された犯人と目される人物が被告人とは別人であるという供述が隠されていた布川事件、そして、袴田氏の無実を示す多数の証拠が隠されてきた袴田事件は、冤罪の被害者を速やかに救済するために、全面的な証拠開示こそが必須であることを示している。

 今後、冤罪を生み出さない為には、次のような施策が必要である。

 全事件において、取り調べの全過程を速やかに可視化し、捜査側の裁量による可視化の制限を許さないこと。また、全事件において、弁護人の請求があれば、検察官の手持ち証拠の全面開示をすること。そして、冤罪を根絶するために、これまでの冤罪事件を含めて、冤罪事件が発生した原因と対策を検証する第三者機関を国会に設置することである。

 そして何よりも重要な事は、私達一人ひとりが、「内なる紅林麻雄」を自己点検してみることである。

「勧善懲悪」感情は、無実の人を「悪者」と決めつける上に、「早急なる処罰」を要求するようになる。

「勧善懲悪」の道徳感情を持つ人間は、私達をも含め、誰もが「紅林麻雄」になり得るのだという事を、決して忘れてはならない。














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