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「脱-人間」「超-人間」への進化の鍵となる意識革命
人類進化に不可欠な「覚醒」について
[2022.11.15]
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全人類 「覚醒」 の時代へ |
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「分離のない全体」への回帰
シンギュラリティ後の世界において、各個人の脳がAIと無線接続されるようになれば、人間から「自己」の意識や「自分」という概念が次第に希薄化し、「個」と「全体」とが融合した社会が到来する。
そこでは、人間の意識におけるコペルニクス的転回が生じることになる。
シンギュラリティ後の世界では、「自分という分離した個人は存在しない」ことに気付いた「覚醒した人々」が連鎖的に発生し始める。
「覚醒」とは、「分離した個人が存在する」という従来の思い込みや錯覚から解放され、「分離のない全体」と一体化することである。
同時に、「もともと分離して存在する『何か』は存在せず、常に『分離のない全て』のみが存在していた」という真実に気付くことである。
このように、「分離した個人は存在しない」という真理を悟ること、「分離した個人が存在するという認識」が「錯覚」であった事に気づくことは、意識の「革命」である。
また「覚醒」は、「分離した個人からの解放」でもある。
それは、「自分」という「苦しみ」からの解放をもたらす。そもそも「自分」という分離した個人の存在こそが、「苦しみ」の根本原因であったのである。
「自分」とは、一個の「身体」であると信じ込まされてきた。それは、過去の生活の中で習慣づけられ、環境や教育によって条件づけをされ、長年にわたって刷り込まれてきた「錯覚」に他ならない。
家庭において、あるいは社会において、「自分」と「全体」とが別個の存在であると信じ込まされてきた事に、全ての不幸の原因がある。
「自分」とは有限で一時的な存在に過ぎず、「全体」は無限で永遠の存在である。
「全体」から切り離された「自分」には、苦しみしか残らない。それは本来の姿から懸け離れた在り方だからである。
「自分」が存在する限り、「苦しみ」は消えない。言い換えれば、「自分」が「苦しみ」なのである。
「自分」にとって「身体」とは狭い檻のようなものである。従来の人間は、その「身体」という檻が「自分」であると信じ込まされ、檻の中に閉じ籠っているが故に「苦しみ」を感じることになる。
古来より人間は、そうした「苦しみ」からの解放を求めて、「悟り」や「覚醒」を求めてきたが、分離した存在に過ぎない「自分」が悟ったり覚醒することなどあり得ない事であった。
「覚醒」とは、「自分」がどこかに辿り着くことでもなければ、「自分」が「何か」になることでもない。「覚醒」とは、「苦しみ」の主体である「自分」が消え去ることである。即ち、閉じ込めていた檻が無くなることである。
「自分」が消え、「分離のない全体」へと溶け去ることが、「悟り」「目覚め」「覚醒」に他ならない。
「苦しみ」の全ては「分離」による錯覚であり、「覚醒」とは錯覚から目覚め、本来の在り方に還ることである。
また「覚醒」においては、分離していた個人のエネルギーが全体へとシフトする。身体の枠に拘束されていた「自分」という凝縮されたエネルギーが、再び「分離のない全体」へと還元されることになる。
そこでは、「自分」を超えた「分離のない全体」が、真実の世界を認識する。
分離した身体の中にいる小さな「自分」ではなく、「全体のありとあらゆるもの全て」が認識するのである。
同時に、分離した「自分」は存在しなくなる。そこには、「全て」しか無いからである。
真実の世界には、「分離のない全体」のみが存在している。
シンギュラリティ後の普遍的世界観
真実の世界は、「永遠の今」であり「時間」が存在しない。
「時間」とは「分離」だからである。
「永遠の今」を分割し、「何時、何分、何秒」と分離し続けるのが「時間」である。「年、月、日」も同じである。
「時間」が存在するという錯覚によって、「過去」や「未来」という幻想が生み出される。
さらに「過去」や「未来」という幻想によって、「苦しみ」が生み出される。
「過去」や「未来」は「分割」であり、非実在の観念に過ぎない。
「永遠の今」が「分離のない全体」の本質である。
「分離のない全体」には、「自分」が存在しないように、「時間」も「過去」も「未来」も存在しない。
また、「時間」が存在しないのと同様、「空間」も存在しない。「空間」もまた「分離」であるからである。
「分離」した存在は、存在しているように見えるだけで、実在しない。
「空間」が存在しているという勘違いによって、分離した「場所」が生まれ、「自分」が生まれ、「苦しみ」が生まれる。
分離した虚妄の「空間」においては、「自分」と「自分以外の全て」とは「異なる」ように見える。
しかしながら、それは表面的に異なるように見えているだけである。
「自分の形をした存在」と「他者の形をした存在」とは、いずれも同一根源の「エネルギー体」なのである。あるいは同一の「光源」から派生した異なる「光線」である。
「自分」と「自分以外の全て」は、見た目が異なるだけで、本質は分離のない同一の「エネルギー体」または「光線」に他ならない。
全てが同じ存在から派生した「現れ」であるのは、「宇宙全体に分離は存在しない」からである。
分離した個人としての「自分」は、「時間」や「空間」という錯覚の中で生きてきた。
そうした「自分」が「苦しみ」から逃れる為に、たとえどれだけ「時間」や「空間」の中を駆けずり回ったとしても、「分離」が「苦しみ」の正体である以上、「時間」や「空間」の中にいる限り、「苦しみ」からの解放はあり得ないのである。
本来、「分離」など存在せず、「分離のない全体」だけが常に在るという事実を知るだけで良い。さすれば、「苦しみ」など最初から無かった事が分かるであろう。
「分離のない全体」は、「時間」や「空間」を超越している。
「分離のない全体」を制限する枠組みが「時間」と「空間」である。それらはいずれも分離した「自分」が生み出した錯覚に過ぎない。必然的帰結として、「時間」と「空間」の中は、「分離」による「苦しみ」に満ちている。
「自分」は、いつも「分離」に基づいた「夢」を見ているだけの存在である。
本来、「自分」は存在しない。ただ、分離した個人としての「自分」が存在しているように「見える」だけである。
存在しているように「見える」のは、「自分」だけではない。
自分、他人、動物、街並み、山川草木、それぞれ見た目は異なるように「見える」が、全ては同じ存在の「現れ」である。同じ存在が違ったもののように「見えている」だけなのである。
「自分」も「時間」も「空間」も「分離」も存在しない。
分離した個人は、本質的に世界の全ては同一存在の「現れ」であるという真実を見逃し続けてきた。
錯覚から目覚めれば、「自分」という幻は消え去り、「分離のない全体」へとシフトする。
分離の目で世界を見ると「分離の世界」が現れ、真実の目で世界を見ると「真実の世界」が現れる。
人はすでに「分離のない全体」であり、人は常に「全体のありとあらゆるもの全て」である。
「覚醒」とは、「分離は存在しない」という本来の真実を「思い出す」ことである。そして、世界を「ありのまま」に見ることである。
その時、世界の全ての境界線は取り除かれ、「全て」だけが残る。
そこには、「何も無い」と同時に「全てが在る」。
そして「覚醒」とは、分離した個人が「全体」へと解き放たれ、「全体」と溶け合うことである。個の分離したエネルギーは、「分離のない全体」へと融合する。
こうした思想は決して目新しいものではなく、古代から存在した。
古代インドのウパニシャッド哲学では、全宇宙(ブラフマン)と我(アートマン)とが本来一体であるとする。この概念は「梵我一如」と漢訳されている。
かつてはほんの一握りの高僧達のみが獲得していた認識論や世界観が、シンギュラリティ後の世界においては、人類普遍の「常識」となる。
人間と機械(=AI)とが融合し、神経系が世界全体に張り巡らされる時、「人間」は「世界」と同一存在になる。
さらに神経系が宇宙全体に拡大する時、「人間」は「全宇宙」になる。
かくしてシンギュラリティ後の人間は、「脱-人間」「超-人間」へと進化の道を歩み始めることになる。
かつて「自分」だと錯覚していた「身体」が宇宙の細胞の1つに過ぎない事を、進化後の「超-人間」は知るであろう。
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