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ホモ・デウス時代のパラダイム

シンギュラリティ後の人類共通の価値観とは

[2022.8.10]




古代インドでジャナカ王に「梵我一如」を説くヤージュニャヴァルキヤ

ノン・デュアリティとは何か


 ここからは、シンギュラリティ以後の人類の価値観、あるいは集団進化した人類に共通の常識(コモンセンス)について予測を試みる。

 近年、「ノン・デュアリティ」という言葉が日本でも知られるようになった。

 ノン・デュアリティは、日本語では「非二元」と訳されているが、むしろ「分割不能」「分離不能」という概念である。

 ノン・デュアリティは、この世界に存在する万物は全てが分離することなく一つであり、一体であるとする。そして、宇宙の全ては単一のエネルギー体によって構成され、完全無欠なものだとする。

 思想史的には、古代インド哲学や新プラトン主義や神秘主義に通じるものがある。

 一方、対象の「分割」を認識のベースとした近代思想のデカルト・ニュートン的世界観に対するアンチテーゼとして位置付けられる。

 ノン・デュアリティの根底には、「分離」または「分割」が諸悪の根源という考え方がある。

 世界は分離によって競争や闘争が生じ、支配と隷属がもたらされ、人々は不幸に見舞われてきた。

 しかしながら、現象界に存在する万物が一つのエネルギーに由来するのであるならば、「分離」や「分割」が起こることはあり得ない。「自分」や「他者」という特定の個人すら存在しない。「在る」という認識は、全て幻想や錯覚である。

 例えば多くの人は、宇宙という広大な空間の中に銀河系という星雲があり、その銀河系の中に太陽系があり、太陽系の中に地球という惑星があり、さらにその中に人間が住んでいると認識している。

 だがノン・デュアリティでは、人間も惑星も恒星も星雲も宇宙も、全てがもともと一つの存在であり、分割不能な関係にある。「宇宙」や「地球」という枠組みも、「自分」や「他者」といった区別も、人間が自我によって捏造し命名した「記号」に過ぎない。

 かつて近代科学は、全ての物質を分割することによって、最小の構成単位が「原子」であり、万物は「原子」から形成されていると考えてきた。

 一方、現代科学においては、量子論の登場以降、万物は波動であり、「実体」は存在しないとされる。謂わばノン・デュアリティは、量子論的世界観に相似する思想と言える。

 デカルト・ニュートン的世界観が「主体−客体」の分割と対立がベースであったのに対し、量子論的世界観では「主客一体」がベースとなっている。主体である観測者と客体である現象とは分離不可能であり、「観測者がいなければ現象も存在しない」というのが量子論的世界観である。

 主体から切り離された客体も無ければ、客体から切り離された主体も存在しない。

 ノン・デュアリティでは、「個人」という概念も無く、自由意志による行為でさえ全てが幻想・錯覚であるとする。個人が持つ感情や意志は実際には存在せず、幻想や錯覚に過ぎない。

 このようにノン・デュアリティは、近代思想が根拠としてきた「個人」の概念そのものをも否定する。

 ノン・デュアリティはある意味で、「反近代」の思想的到達点でもある。

 こうしたノン・デュアリティの世界観は、今に始まった物ではなく、古来から伝承されてきた人類の叡智の中に見られる。

 紀元前8世紀の古代インドの哲学者ヤージュニャヴァルキヤは、宇宙と真我(アートマン)とは一体不可分であるとする「梵我一如」の思想を説き、バラモン教の理論的基盤を築いた。

 また、バラモン教をルーツとする仏教も、ノン・デュアリティ思想と共通の世界観を有している。そのため、ノン・デュアリティは仏教の悟りに似ていると言われる。

 ノン・デュアリティを真の意味で体得出来た時、「ノン・デュアリティ状態」に移行するとされる。

 ノンデュアリティ状態とは、言い換えれば「覚醒」と「悟り」の境地である。

 分離によって発生していた「自我」や「個」という誤った認識から脱することにより、「個」の迷妄から解き放たれ、自他一体であると知り、「非二元」である単一の宇宙エネルギーと一体化する。

 それまで認識していたこの世の事象が、自我によって引き起こされた錯覚に基づく幻想であった事に気付く瞬間が「覚醒」である。

 さらに、自我や個の滅却を通じて、唯一絶対のエネルギーと一体になり、「この宇宙は常に完璧で調和された状態である」という真実に気付く事が「悟り」である。

 ノン・デュアリティは、抽象的な理論ではなく、具体的な体験である。

 身近に感じることの出来るノン・デュアリティとしては、「愛」と「平安」と「喜び」がある。

 ノンデュアリティでは、「愛」と「平安」と「喜び」は全宇宙に満ち溢れており、且つ万物に宿るエネルギーとされる。

 従って、「愛」と「平安」と「喜び」に満ちていなければ、「覚醒」も「悟り」もあり得ない。

「覚醒」や「悟り」が本物であるか否かは、「愛」と「平安」と「喜び」に満ち溢れているか否かによって検証が可能である。


進化人類にとっての「常識」


 なお、こうしたノン・デュアリティは、今日の一般常識からすれば懸け離れた理論である為、ほとんどの人々にとっては受容し難い虚構と思われるであろう。

 近現代人にとって、ノン・デュアリティが実感の伴わない内容である事も大きな要因である。

 ノン・デュアリティの体験は言語を超越している為に、どうしても抽象的な表現にならざるを得ない。そのため、理解することが非常に難しく、多くの人々からは敬遠されるようになる。

 個人間あるいは集団間の競争や闘争が当たり前で、「支配-隷属」関係が当然とされる世界で生きてきた人々にとっては、ノン・デュアリティこそ「幻想」であり「錯覚」でしかないであろう。

「個」の分離によって成立している近現代社会の中で育ってきた人々は、世界規模の洗脳状態に置かれていると言って良い。

 だが、やがてシンギュラリティが到来し、各人の脳がAIを介して無線ネットワークで連結されるようになれば事態は急変し、コペルニクス的転回が発生する。

 シンギュラリティ以後は、「自分」と「他者」との区別が無くなり、「個」の概念は消滅し、やがて人類全体が地球大の一個の大脳となる。必然的に、ノン・デュアリティが人類全体のコモンセンス(常識)とならざるを得ない。

 近現代のパラダイムや常識を捨て去り、ノン・デュアリティ状態を体験すれば、誰であろうと覚醒と悟りの境地へと至ることが可能である。

 前回の記事でも述べたように、人類が「ホモ・デウス」へと集団進化する時代は、もうすぐそこまで来ている。

 ホモ・デウスの時代とは、一言で表すならば「個」の分離が消滅する時代である。

 物理的に自他の分割が消滅し、「自他一体」が常態化するならば、ノン・デュアリティの価値観がグローバル・スタンダードとなるのは必然である。

 ノン・デュアリティは決して目新しいものではない。ノン・デュアリティの歴史は古く、多くの先覚者達が存在した。

 バラモン教や仏教などの教えの中で悟りの境地に到達した人々は、ノン・デュアリティを理解し体得していた。彼等は、世界はただ一つであり、個々人の感情は幻想であり、争いは分離によってのみ生じる現象である事を悟っていた。

 ノン・デュアリティは、太古の昔から存在してきた思想であり、この宇宙や世界の真理を表したものである。

 永遠の真理は、悠久の過去より遥か未来に至るまで不変であり絶対である。











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