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日本人シュメール起源説について

世界最古の文明と日本

[2022.7.1]




彦島八幡宮に安置されている神霊石には、古代シュメール文字が刻まれている
PHOTO(C)彦島八幡宮

世界最古の文明・シュメール


 今日の歴史学では、世界最古の文明は「シュメール文明」とされている。シュメール文明は、現在のイラク南部、チグリス・ユーフラテス川の下流域に成立した文明である。

 シュメール人は、どこからともなくメソポタミア南部に出現し、人類最初の文明を築き上げ、今から4000年前、突然姿を消してしまった謎の人々である。 シュメール人が、いつ、どの経路を通ってその地にやって来たのか、そしてその後どこへ行ったのかについては誰も知らない。

 このシュメール文明の存在は、聖書にも古代ギリシアやローマの文献にも一切記録が無く、発掘された1850年代まで全く知られていなかった。しかも、「シュメール人」が如何なる人種であったかについては未だに判っていない。

 紀元前5500年頃からシュメール地方では灌漑農業が本格化し、紀元前2900年頃から紀元前2350年頃までの初期王朝時代には、ウル、ウルク、ラガシュ、キシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマといった都市国家が形成され、都市文明が発達した。これら都市文明を担った人々が、歴史学上「シュメール人」と呼ばれている。

 彼らは「シュメール語」と呼ばれる系統不明の言語を話し、楔形文字を発明して、メソポタミア文明の基礎を作り上げた。

 近現代になってから解読されたシュメール文字の記録によれば、シュメール時代の最盛期は、紀元前22世紀末に建国された「ウル第三王朝」の時代であった。

 ウル第三王朝初代君主の「ウル・ナンム王」は、神殿の建築や運河の建設などを行うと共に、「ウル・ナンム法典」と称される法典を制定した。ウル・ナンム法典は、後に古バビロニア王国で編纂されるハンムラビ法典にも影響を与えたと考えられている。ウル第三王朝は、2代目君主シュルギ王の時代までに行政機構が確立し、王権の神格化も進んでいった。

 やがてこの王朝は、外敵であるアムル人やエラム人の侵入を受けるようになり、紀元前2004年(または紀元前1940年)、5代目君主イビ・シン王の時代にエラムに侵攻されるとウルは陥落した。エラム人によってイビ・シン王は遥か東方へと連行され、これを以てウル第三王朝は滅亡したとされる。

 その後、シュメール人が何処へ行き、どうなったか等についての記録は残っておらず、謎のままである。

 やがてメソポタミアにおいては、シュメール語は使用されなくなり、アッカド語などセム系の言語が支配的となっていった。歴史学ではウル第3王朝が滅亡した紀元前2004年(または紀元前1940年)頃までが「シュメール時代」とされる。

 その後、口語としてのシュメール語は完全に死語となったが、学問・宗教・文学・法律の言語としてのシュメール語は、メソポタミア文明の終焉まで継承されたと考えられている。メソポタミア文明におけるシュメール語は、いわば中世以降のヨーロッパにおけるラテン語のような位置付けの存在であったものと思われる。


日本人シュメール起源説の経緯と展望


 20世紀になって欧米の考古学者や言語学者などによって解読され始めたシュメール語の文字と言語については、以下のようなことが明らかになっている。

 シュメールの楔形文字は、後の日本語に見られる「漢字仮名まじり」と同じ構造を有している。

 またシュメール語は、日本語と同じく「膠着語」系統に属し、日本語でいう「テニヲハ」のような助詞が単語に「膠着」する構造になっている。こうした構造を持つ言語は、世界的に見れば特殊で稀有な存在とされる。

 元禄時代に来日した事もあるドイツ系のオランダ人歴史学者エンゲルベルト・ケンペルは、その著書『日本誌』の中で「高天原はバビロニアにあった」とし、「日本人は、遥か西方の源郷から渡来した」と記している。

 近代になってからは、バビロニア研究者の原田敬吾氏が、このケンペル説を踏まえ、大正7年11月の「バビロン学会」において「日本人シュメール起源説」を発表した。

 原田氏は、「人類発生の原点とみられる西アルメニア高原から流れ出す、チグリス・ユーフラテス川下流域の沃野シュメールの地──この平原こそ、人類最初の楽園“エデンの園”(シュメール語でエディンとは平野のこと)であり、日本民族の祖先もここから移り住んできた」とし、その論拠として、
「シュメールの日の神ウト、海の神ヤーなどが、広く日本で崇拝された痕跡がある」
「創世神話、イシュタル女神の冥界下りなど、シュメール神話の多くが日本神話に取り入れられている」
「古事記のイザナギノミコトの服装が、シュメール君主の服装に合致する」
「シュメール人は元来海辺の民で、航海術に長けていた」
「日本語の地理的名称にシュメール系の言葉が多い」
等々を挙げている。

 その後、伊予大三島神社の三島敦雄氏は、昭和2年12月に発行した『天孫人種六千年史の研究』において「日本人シュメール起源説」を論じている。

「古語に天皇をスメラミコトとも、スメラギ、ミカド、明津神とも申しあげることは、国家としてはかつて国の基底であった。なのにこれら原始時代の言語は、すでに遠く古代においての言義を忘失し、ために我々が民族史も国語の理想信仰も、不徹底ならざるを得なかった。しかしその語源を徹底研究することによって、われらが日本人の本源は、さながら暗雲を破れる旭日を仰ぐ感じでわかってくるのである」(『天孫人種六千年史の研究』より)

「スメ(皇)、スメラ(天皇)とは古代バビロニア語のスメル(Sumer)と同語で、ル、ラは助辞の変化、シュメールとも発音された。このスメとは神の意で、ラテン語のスメ(Summae)も至上至高の意で同系語である。スメ(皇)をすべ(統)の意に解して“統制”の意にするのは、はなはだしい間違いで、天皇=神であり、スメル国は皇(スメ)国と一致して神国ということなのだ。また、スメラギとはスメル、アグ(AK)の複称であり、ミコト(尊、命)、ミカド(天皇)の言語はミグト(Migut)の転訛で“天降る開拓者”すなわち神ということ。明津神とは、シュメール語の日神ウツ(Ut)の御子たる火神アグの権化として、この国土に降りたまわったのだ」(『天孫人種六千年史の研究』より)

 三島氏によれば、天皇の古語はすべてシュメール語で解釈が可能であり、いずれも「天から降られた神」を意味している。即ち、古代の日本に天皇を戴いて天降った民族は、シュメールの王族とその民であったとする。

 また、古代バビロニアの日像鏡、月像の首飾り、武神のシンボルである剣は、日本の三種の神器に相当し、古代バビロニアに多く見られる菊花紋は、皇室の菊花紋章に一致するとも指摘している。

 三島敦雄氏の結論としては、古代の日本列島には各地方から様々な民族が渡来していたが、建国と統治の中心となったのは、世界の諸文明の祖であるシュメール系民族であり、彼らは今から数千年前その大宗家たる皇室を奉戴して、人類文明の揺りかごである西の豊葦原の瑞穂の国から、東の「日出ずる豊葦原の瑞穂の国」へと移住し、シュメール人本来の大理想を表現するために日本を建国したということである。

 因みに、三島氏の著作『天孫人種六千年史の研究』は、昭和10年代には陸軍大学、陸軍士官学校の課外読本の一つに採用され、「ペルシャ作戦」「アラブ侵攻計画」といった机上演習も為されたという。また当時、同書は100万部近い大ベストセラーであったが、敗戦後、GHQはこの本を徹底的に探し出して没収し悉く焼却したとされる。

 他にも、ヨーロッパ各地を遊学して史料を漁っていた石川三四郎氏は、大正10年、『古事記神話の新研究』において、メソポタミアと日本文明との関係を論じている。

 石川氏も、シュメール神話と日本神話の比較などから、日本とメソポタミアの文明が酷似していることを指摘する。そして石川氏は、「日本人ヒッタイト起源説」を唱えた。ヒッタイトもシュメールと同様、メソポタミアにおける謎の民族であった。

 ヒッタイト人は「鉄を発明した民族」として知られ、紀元前2千年頃、何処からともなく現れて、トルコ・アナトリア高原に一大王国を築いた。その後ヒッタイトの勢力は、バビロニア王国を滅亡させ、さらに当時世界最強のエジプトを打ち破るほど強大だったが、紀元前13世紀末に突如として歴史から姿を消した。

 石川氏は、「私はこのバビロンの神話を日本に伝えたのはおそらくヒッタイト民族であろう、ヒッタイト民族はすなわち我らが天孫民族であろう、と信じる者である」とし、その論拠として、
「ヒッタイトの岩屋生活が、天孫民族の天の岩屋戸に酷似している」
「天孫民族の八咫烏が、ヒッタイトの両頭鷲像に似ている」
「古事記が諸神を『柱』の語で数えるのは、ヒッタイト人が『柱』形を以て国王を表徴する事に起因する」
等々を挙げている。

 なお、シュメール人の消失とヒッタイト人の出現がほぼ同時期であった事などから、石川氏は、「紀元前2千年頃にメソポタミアから突然姿を消したシュメール人は、ヒッタイト人の祖先であった」と推測した。

 その意味では、石川説もまた「日本人シュメール起源説」であると言える。

 他にも、戦前に東洋宣教師会ホーリネス教会を指導した中田重治氏は、聖書にある「ヘテ人」(=ヒッタイト人のこと)に注目し、昭和7年に出版した『聖書より見たる日本』の中で次のように記している。

「このヘテ人と文明の祖となったシュメール人とは非常な関係があり、あるいはヘテ人はシュメール人の一部ではなかったろうかとさえいわれている。このヘテ人が今より2500年前、古代イスラエル王国の滅亡とともにどうなったかわからなくなってしまった。しかるに、オックスフォード大学の考古学の権威セイヌ博士の発表したところによれば、それは日本人である。その骨格、その顔つきは日本人にひどく似ていて、目尻が上がっており、髪はわが神武天皇時代の人を絵に見るように、弁髪を束ねていたとのことである。日本人の中にたしかにこのヘテ人の血が入っているとは、私ひとりの想像ではないと思う」

 さらに中田氏は、シュメールとの関係についてこう述べている。

「シュメール人は聖書のエラム、すなわち今のぺルシアの都スサに居住して発展したとのことであるが、日本の古代史にスサノオノミコトが兵を引きつれて東に上ったとあるが、あるいはこれは、その都の一人の王ではなかったろうかとも想像できる」

 また、「物的証拠」も次々と発見されている。

 かつて平家最後の拠点となった関門海峡の彦島には、杉田丘陵と呼ばれる丘がある。大正13年、杉田丘陵の頂上の最も大きな平たい岩に、合計30個のペトログラフ(=岩に刻印された紋様)が確認された。

 それらのペトログラフは、専門家によればシュメールの古代文字と同じものであるという。それらが刻まれたのは、紀元前2千年前後のものとされるが、詳細な年代の特定は出来ないという。

「古代のいつの時代か、シュメール文字を知っていた集団が何らかの形で彦島に上陸し、祭祀をした神殿ではないか」と推定する研究者もいる。

 なお、この彦島のペトログラフ岩は、昭和57年に彦島八幡宮の境内に移転され、神霊石として安置されている(上記写真)。

 さらにその後も、同様のペトログラフは、九州北部や山口県西部の各地で相次いで発見された。これらペトログラフの発見のニュースは、日本国内よりも海外で注目され、研究対象とされている。

 1988年、アメリカ・オリエント学会の学会誌に、「ムル・ムルからスバルヘ」という論文が掲載された。

 その論文の内容は、「ついこの間まで、プレアデス星団を指すシュメール語ムル・ムルと、この星々を表す日本語スバルとの間に、何か歴史的な、あるいは文化的な繋がりを想定するなど、誰にも夢想出来ない事だった。それが優れたオリエント学者ロイ・ミラーが、権威あるアメリカ・オリエント学会の会長講演をもとに加筆し、『スバルの跡をたどれば、本当にシュメールの昔にまで行き着く』ことを論証した」というものであった。

 シュメール語と日本語の共通点について、海外の学者達が注目し始めている事は大いに意味がある。

 このように「日本人シュメール起源説」は、決して日本国内のみで流通しているローカルな「都市伝説」の類ではない。

「日本人シュメール起源説」は、「日ユ同祖論」などと併せて、古代日本が世界文明の発祥と深い関わりがあった事を明らかにしつつある。











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